第六章 潮騒(3)

 雷神の宮との睨み合いは続いていた。
 朧は更に五人を斬り伏せたが、今はまるで時が止まったかのように、両者は暫くの間沈黙に服していた。橋の利点を活かし一対一の戦いに持ち込んだものの、代わる代わる攻撃に彼女は徐々に疲弊の色を見せはじめていた。戦いの小康はとても有難い。だが、単に鳴りを潜めているだけではない。目に見えぬ気を刃のごとく相手に突き付け、牽制し合っているのだ。そうでなければ一瞬の隙をついて本物の刃が己の首を刎ねに来る。沈黙の裡にも戦いは休むことなく続いていた。
 朧は、橋には一歩も近付けさせぬ気迫を敵に見せるが、軍勢は一向に撤退の気配を見せなかった。彼らは未だかずら橋を渡る機会を強かに狙っている。元より、無言の対峙はいつまでも続かない。
 やがて、緊迫した場に不釣り合いな口笛が響き、静寂が破られた。雷神の宮の軍勢がより一層緊張を帯びる。朧は“頭”が出てきたのだと覚った。
「何だ。俺の手下を遠慮もなしに次々斬っちまうから、どんな屈強な猛者かと思いきや、ちっこい餓鬼じゃねェか」
 鬱蒼とした茂みより一人の男が姿を現した。
 従者を伴ったその男は、髪を一つに束ね、右目には刀傷が一筋、眉から頬骨まで縦に裂いている。やや短めの黒の羽織の上には“西”の文字が縫い付けられていた。
「大したもんだぜ」
(こやつが西の将・爐(いろり)か)
 朧は息を呑んだ。
 細身で三十路にはまだ至らぬ青年だったが、他の忍びとは異質な雰囲気を纏っていた。気は四方に放たれる強烈な熱のようで、有無を言わさずに抑え付けるようなところは暴力的に照り続ける夏の陽にも似ていた。
 対照的に、従者の忍びはそこに在ることすら忘れてしまうほど気配を封じ込めている。まるで背後の木々に溶け込んだかのようで、現か虚か覚束ないところがある。この男もただの忍びであるはずがなかった。
「てめェらッ! ガキに手こずってんじゃねェぞ!」
 爐は地に伏した配下の忍びを一瞥すると鋭く尖った犬歯を見せて叫び、腰に携えた大太刀を抜いて、空中で血払いするよう豪快に振り回した。ぶん、と低い音を鳴らし、朧と配下の忍びたちを威嚇する。
「斬馬刀……。やはりお主が爐か」
「いかにも」
 にやりと吊り上げた唇の端に苛烈な性が一筋の炎となって鋭く宿っていた。更に、黒い瞳の奥には怒りとも悦びともつかぬ炎がちかちかと煌めいている。一目でこの男は徒に戦いを好む性分だと分かるのだ。
「何故風刻の里に攻め入る」
「俺は問答するより早くてめェをぶっ斃してェんだがなぁ」
 爐は問いには答えず、斬馬刀の切先を朧に向け構える。
「まさか殺戮が目的とは言うまい。雷神者も地に堕ちたか」
「勝手にそう思ってても構わねェぜ。俺は風刻者がどれほどの腕前か試せればいいんだ。あんた、がっかりさせるなよ?」
 彼は切先を大きく旋回させ、両肩に刀の峰を乗せて笠の下に構える。朧も呼応するよう刀を下段に構え直す。
「爐様。目的は『弥勒の書』であることをお忘れなきよう」
「うっせェ! 分かってらぁ」
 従者の戒めを聞き流して、爐は刀身に己の気を集中させる。堂々たる構えには、態度に現れるような横柄さや粗雑さは感じられず、むしろ寸分の隙もない。
(手強い)
 構えを見れば稀なる使い手であることは明確だった。そも、斬馬刀を白兵で用いる人物である。余程の変わり者でない限り、腕に自信のある者に違いない。
 朧は刀の切先に神経を集中させた。爐の気に当てられてじわりと汗が噴き出る。
「まずはお手並み拝見といくぜ」
 先ず動いたのは爐だった。構えを崩さぬままに早駆け、故意に朧に届く手前で大きく斬る。
「っ!」
 得物の長さをものともせぬ素早い一手が襲う。
 朧は身を躱しながら刀身で斬馬刀の一撃を受け止めた――はずだったが、脆くも、刀は打撃を受けて歪む。爐の手の方が寸分早かったのだ。
「くそ!」
 刀身の歪んだ刀を捨てると、朧は腰の打ち刀を素早く抜く。楸が手合せの際に使っていた刀だ。
「受けるのも精一杯みたいだなァ。いつまで持つかな? ま、長けりゃ長いほど俺は楽しめるんだけどなァ」
 爐の一撃は重い。斬馬刀の重さも伴って、朧の身では捌ききられない。力で敵う相手ではない。そのくせ、大きな得物を扱っているのに、振り回す速さは大刀や小刀と何ら大差ない。例え彼の刀を受け流したとしても、朧では渾身の力で受けねばならず、そうなると再び刀が折れ曲がるかもしれなかった。
(ひとつひとつ受けておってはすぐに限界が来るな……)
 加え、爐の攻めは非常に執拗である。追随の手を休めることなく朧に鋭い切先の大刀を振るう。仮にうまく受け止められたとしても、すぐにやってくる二度目の攻撃に間に合わせることも、隙を縫って刀を振るうことも困難だ。彼女が素早く身を躱しても、忍びの身体能力を熟知する爐にとって、相手の行動は予測し得るものだ。
「おいおい、風刻の忍びさんよぉ。逃げてるだけじゃ面白くないぜェ!」
 朧はいつの間にか橋を渡り切り、招雷山に踏み込んでいた。爐に誘導されたのだ。雷神の宮の他の忍びは彼女が爐と対決しているのを良いことに、妨げる者の居らなくなった橋を次々と渡り始める。
(しまった!)
 しかし、朧が背後を振り向く余裕もなく、爐は早業で斬馬刀を繰り出す。朧は爐の間合の内に居ながらも、自身が彼を斬るにはあと少し間合が足りない。
「確かに、逃げるだけでは埒が明かんようじゃ……」
 朧は今一歩踏み込んで仕掛けねばならなかった。彼女は爐が再び斬り込んだ刀の切先を己の刀で捉える。短く発された気合とともに、爐の切先はひゅんと空を斬って後方に流れる。驚いた一瞬の隙を狙って、朧は畳み掛けるように斬る。
「ほぉ。やるじゃねェか!」
 肩口から血が滲む。浅く切れた己の上腕を見て、爐は悦ぶように顔を歪める。血の臭いで興奮した獣のように、雄叫びを上げて斬馬刀を振りかぶる。
(来る!)
 朧が身構えるより速く、爐は目の前に居た。
 刀は、届かぬ内から彼女の喉の一点を確実に捉えていた。まるで今までが遊戯であったかのように。
「……っ!」
 びゅんと切先が空を斬り、爐が朧の腕を掴んだ。他の雷神の宮の軍勢とは比べものにならぬ程研ぎ澄まされた業だ。曲がりなりにも四人将たる者の格の違いを見せ付ける。
「捕まえたぜェ」
「ぐ……」
 馬乗りになった爐の手の内に力が籠り、朧の手から刀が零れ落ちる。このまま腕の骨を折られるのが先か、斬馬刀で喉を貫かれるのが先か、反撃の手を失った朧には沙汰を待つしかなかった。
 だが、どういう訳か爐は首の皮一枚を切り裂いて、寸で動作を止める。覚悟を決めていた彼女は爐の表情が次第に戦いの興奮とは別の愉悦に染まるのを察知した。
「……っ! 何故、止めを刺さん」
 爐はすぐには問いに答えなかった。何かを試すように朧の腕を地面に押し付け、肉を潰すほどの力をたなどころに籠める。
「ぐっ……!」
 朧の口から苦悶の声が漏れる。爐は納得したように、ほう、と呟き、
「なるほど、てめェ女か。風刻者にくノ一はいないと聞いていたが違えたか」
 再びにやりと口の端を持ち上げ、朧の首巻をはぎ取った。黒髪がじわりと噴き出た汗にへばりつく。
「殺すなら早ようせい」
「それには惜しくなった」
 例え正式な忍びではなくとも、忍びの矜持を持つ朧にとって、爐の行為は屈辱でしかなかった。
 忍びは正体を見られてはならぬ。
 即ち、顔が露わになった今の状況は、本来であればすぐにでも己の顔を焼き、死後にとくと検分されぬようにするべきなのだ。それが忍びの掟に則った敵地での死だった。
 しかし、爐はいつまでたっても朧に刀を突き刺そうとはせず、彼女に顔を近付ける。
「近くで見れば確かに女にも見える。面白い。髪が短いのもてめェにゃ似合ってら」
 顎を抑え込まれて朧は爐を睨み返す。爐の指が少しでも口元を触れれば、噛み切ってやるつもりだった。奥歯を噛みしめていると、ふいに口が塞がれた。
 思考は暫時奪われた。
 口を吸われたと理解した矢先、今度は舌が侵入する。
「風刻に想い人がいるか? 女という生き物は男に操を立てるのが好きだからな。他の男に操を奪われるほど不名誉なことはあるまい。顔向けできねェようにしてやろうか」
 爐が舌なめずりをしながら下卑た笑いを浮かべる。すぐにでも殺せるはずの彼が、敢えてその安易な方法を取らないのは、相手の心までも挫こうとするからに他ならなかった。
 矜持を持たぬ非道な男だ。
 追い詰められた者を更に追い落とすことに快楽を見出す爐に、朧は怒りで体がわなわなと震えた。
「だが顔向けできねェなら、てめェは雷神の宮に来れば良い」
 爐は耳元で囁いた。
「いいか、特別に生かしてやると言ってるんだお前がどんなに強くとも風刻じゃあくノ一にゃなれねェ。俺に一太刀掠らせるだけの才をここで腐らせるのは勿体ねェ。雷神の宮に来い。俺の女になれ」
「誰が……ッ」
 体をよじる。だが、朧の四肢は地に縫われたかのように爐の檻を抜け出せない。
「はん、動けやしねェよ! 冗談で言っているんじゃねェ。お前の度胸と才を買って言ってやってるんだ! 風刻者は選民の考えを推奨してやがる。生まれつき選ばれていなけりゃあとは塵だ」
 爐は朧を逃さぬように右肩をぐっと足で踏みつけて喉に手をかける。
「けどよ、雷神の宮は違う。親父が認めねェ庶子の俺でも、孤児になった俺でも、実力を見せつけさえすれば上に立つ機が与えられる! お前はどうだ!」
 喉が締め付けられ、苦しさで声が漏れ出る。雷神の宮が風刻の里に比べてずっと開放的な制度であることに羨ましさは感じるが、かといって朧は決して雷神の宮が良いとは思わなかった。
 彼女は人の上に立ったり部下を持ちたいわけではない。名誉や名声が欲しいわけではない。突き詰めていえば、忍びという職ですら、ただ里に在り、里の役に立ち続けるためのひとつの手段でしかない。
 単なる諜報者や暗殺者としての忍びになりたいのであれば、里に固執する必要などひとかけらもないのだ。そう、里とそこに住む人々がなければ、どんな職も地位も意味を成さない。彼女が真になりたいのは“忍び”ではない。“風刻者”なのだ。
「……に……らぬ」
「答えを聞かせろ」
 爐が手の力を緩める。朧は彼の力に抗い、己の身体を縫いつける足を掴んだ。
「っざけるな……! わしは雷神者、などに、ならぬ!」
 爐が山犬のような牙を見せる。朧の固い意思に納得が出来なかったのだ。彼は再び手に力を加えるが、しかし、
「そうだ。ふざけたことを言ってもらっては困る」
俄に、背後から浴びた声にその場から飛び退いた。背後の木に?(ひょう)が撃ち込まれる。
「朧!」
 名を呼ばれて朧ははっとした。十文字槍を片手に東雲が駆け付ける。黒橡色の衣には返り血が撥ねている。恐らくは先刻橋を渡った雷神者の血だろう。
 漸く里からの加勢が到着したのだ。――但し、橋まで到着したのは東雲一人だった。橋向こうに立ち並ぶ鬱蒼とした木々の間を縫って、微かに怒声が聞こえる。風刻の一団は正に爐の手下たちに応戦している最中と思われた。
「ほう。朧という名か。横槍が入って惜しいことをしたな」
「彼女は雷神の宮には渡さん」
 東雲が槍の穂先を敵に向け構える。爐も既に構えを結んでおり、いつでも仕掛けられる格好になっていた。暫し、両者の間に火花が散る。朧は隙を縫って刀を拾い上げ、東雲の傍に駆け寄った。
「ご加勢感謝いたします。あれが爐にございます」
「うむ、そのようだな」
 東雲は初めて目にする爐の風貌に目を細めた。若い。だが、他者に制御されぬ獣のような荒々しくも命の熱に満ちた目をしている、と思った。こういった者は獣の者が従うに値すると認め、尚且手綱を引ける者が居らなければ、扱いの難しい災厄の源でしかない。この一面だけでも、決して爐を風刻の里に居れてはならなかった。
「雷神の宮、西の将・爐! 貴殿はなぜ我等が里に攻め入る」
 再び同じような問いに爐はうんざりとして、
「んなもん決まってるだろうが。『弥勒の書』を奪いに来た! そう言や満足かぁ」
「弥勒の書……」
「何だぁ? その面は。まさか風刻者は秘術の書について何も知らされてねェのかぁ?」
 朧と東雲は顔を見合さなかったが、胸中では同じよう怪訝に思っていた。“秘術”とは穏便でない響きだ。
「貴殿らが望む書は眉唾に過ぎぬと言ったら?」
「そんな筈ねェ。我らが雷神の宮に“天の巻”の真筆が伝わっているんだ。てめェらの里に必ずや“人の巻”がある筈だ!」
「そんなもの、伽話の書でしかないはずだ」
 東雲は懐疑的だった。だが、爐をはじめとする雷神の宮の者たちは書の存在を一寸たりとも疑ってはおらぬ。端から信じているのだ。
 朧はもはや東雲ほど爐を疑ってはいなかった。爐の言うことは全くの嘘ではないのだろう。『弥勒の書』は十六夜の遺した日記から推測すれば、少なからず存在はするのだ。そして各々秘密の伝承により受け継がれて来た。秘術の中身の真贋が如何にせよ、上層の者以外に隠して来られた事実からすれば、書は厄介なものであることに間違いなかった。
「なら、好きに思い込めばいい。藤間郷を粗探しすりゃそのうち出てくるだろうよ。――んなことより」
 爐は釈然とせぬ東雲を見つめる。わずかに切先が揺れ、
「今するべきはこいつを始末したら朧、てめェを里に連れ帰る!」
 言い付けに身を低くして素早く斬馬刀を薙ぐ。東雲は穂先でそれを受けて弾き返す。
「戯言を!」
「戯言かどうか、てめェの体で思い知りなぁ!」
 爐は東雲の間合に深く入り込んで、再び、斬馬刀を大きく一文字に薙ぐ。東雲は後退しながらこれを受けようと試みるが、それよりも早く、斬馬刀が槍の柄に突き刺さる。
 一瞬の膠着の後、東雲の槍は柄の半分を失った。だが、構わずに柄を斬られた不安定な槍をそのまま繰り出す。十字に交差した鎌が爐の首の皮を裂き、鮮血が滴る。爐は傷付くのも厭わず自ら前進し、再び槍の柄を目がけ、斬馬刀を降り落とす。
「くっ……!」
 穂先が地面に落ちる。
「良いざまだ!」
 たった四尺の棒切れとなった槍を東雲が構え直すよりも前に、爐の愉悦に歪む表情が近づく。
(まずい!)
 朧が咄嗟に棒手裏剣を打つ。が、勢いよく振り回される斬馬刀の前では冬の蠅のように容易に払われる。
一閃。横に薙がれた斬馬刀の切先に血飛沫が飛ぶ。血飛沫の先に東雲の苦悶の表情が見えた。着物の下に赤い一文字が胸に走る。滲み出した血が彼の着物を深い色に染める。
 爐は荒い息遣いの東雲を眼下に、彼に裂かれた首元を触り、手のひらに伝う己の血を舐める。まるで酒でも呑んで酩酊しているかのようだった。にたりと笑みで歪んだ右目の傷が酷く醜く見えた。
(血に酔った獣じゃ……)
 朧は爐を見てぞっとした。まるで水浴びでもするかのように返り血に酔いしれている姿はおぞましい悪鬼さながらだったが、最も嫌悪を感じたのは、その姿がまるで己を水面に映し出しているかのようだったからだ。
 刀を交え、血を浴びることでしか生きた心地のせぬ者。そういった者は争いのあるところにしばしば現れる。生まれ持った性質である者も居れば、往々にして戦いのさ中に病のように狂気を得る者もある。果たして爐がどちらの性(さが)なのかは分からぬが、己がそういう類の人間であり、また、彼も同じ系譜の線上に並ぶ者であることは確かだった。
 だが、根が似た者同士であれ、そうでなかれ、朧には既に決めたことがある。――爐という存在は取り除かなくてはならぬ。
 彼をこの地に縛り付けておくことが難しい以上――風刻の里への侵攻を止めぬ以上、刻一刻と流れる時の果てに彼を葬らなければならなかった。それは朧一人では到底出来ぬことではあったが、東雲の助太刀を得た今、爐に寸分の隙を作ることも不可能ではない。
(わしは武家でも忍びでもない。卑怯だと言って面目を顧みる必要もない)
 朧は両手を揃えると大指と頭指(人差し指)を絡ませ、他の指はぴんとたてて羽のように広げ印を結ぶ。僧侶や修験者の結ぶ印だ。風刻の里に居る間は忍びの道においても、武家の道においても“邪道”と言われるこの技を封じて居りたかったが、今や手段を選ぶ猶予はない。
「オン・ヒラヒラ・ケン・ヒラケンノウ・ソワカ、オン・ヒラヒラ・ケン・ヒラケンノウ・ソワカ、オン・ヒラヒラ・ケン・ヒラケンノウ・ソワカ」
 素早く呪を唱え、刀の柄を握り直すと、東雲に気取られている爐に再び向かう。朧は二人の脇から爐の背に向かい刀を振り下ろす。と、雷のような白光が爐の背を斜めに裂く。
「はっ、やってくれるっじゃねェかッ! てめェを忘れちゃなんねェなぁ!」
 爐の肩や腰から赤い水滴が飛ぶ。だが、直ぐに死に至るものではない。彼はよろめきながらも振り向きざまに斬馬刀を下から鋭く突き上げる。
「女ってのはなァ、言うことを聞かなければ調教すりゃ良いんだよ!」
「っ……! この馬鹿力め!」
 咄嗟に打け流すも、重い一撃に耐えかねて朧は刀を弾かれる。辛うじて刀を投げ出しはしなかったが、がら空きになった胴体を斬馬刀の切先がうっすらとなぞる。白い肉の上に赤い血がじわりと滲む。
「呪か。風刻者は呪を外道の法と嫌うが、その中にあって呪を扱うとはやっぱりてめェ、尚更俺らの陣営に欲しくなった!」
「誰がお前の元に下るか」
 爐にはまだ叫ぶ力が残っていたが、動きは明らかに精彩を欠き始めていた。しかし、それは東雲と朧も同じことで、三者の誰しもが手負いであり、傷の深浅に関わらず、出血によって死に至る危険を孕んでいた。
 これ以上戦いを長引かせるわけにはいかぬ。その思いもまた三者の誰しもが心の内に秘めていることだった。
爐の標的は明瞭だった。彼の斬馬刀は専ら東雲ばかりを狙った。朧が来れば深手にならぬ程度に弾き飛ばし、二人の戦いの輪から外した。
 槍を捨てて抜身の剣を構える東雲は、爐の攻撃を受けながら、己もまた幾度となく斬り付ける。刀は何度も切り結ばれ、また交わるが、刀を得手としない東雲に比べ――例え背に深い傷を負っていたとしても――、得意の斬馬刀を繰る爐のほうが勢いが勝っている。互いに小さな切り傷を付け合ったところで、むしろ、東雲敗北の不安が朧の胸に厚い靄となって立ち昇った。
 それは東雲が知性や理性で戦っているからでもあった。対して、爐のように戦いだけを欲する獣は理性による抑制など効かぬ。命の火が燃え尽きるまで、指先ひとつでも動けばただひたすらに相手の喉元を狙う生き物なのだ。
 朧は二人の戦いに割り込む隙を探っていた。両手で構えた刀をどうすれば爐に浴びせることが出来るだろうか。斬る頃合いを過(あやま)てば、敗北に繋がるに加え、東雲の命にも関わる。かといって、このまま思案に明け暮れていては東雲は出血が元で死んでしまう。
 機会は一度しか訪れぬだろう。逃せば全てが潰える。
(いや……)
 彼女は頭をふり、
(わしは楸に言ったではないか。――頭で算段するうちは捕まえられぬ、と)
 そして、一旦構えを解く。
(算段すれば心が妄動する)
 心を自然に任せ、息を殺して二人の動きを見る。
 東雲の腕が上がる。爐の刀が振り下ろされる。東雲の刀が爐の脹脛を斬る。爐が怒りに任せて刀を打ち下ろす。東雲の胸を蹴る。東雲はまともに蹴りを食らって跳び、爐の顔に笑みが宿る。
「ははっ! 良いざまだ! そのまま谷底に落としてやるよ!」
 東雲の背後の一間先には黒い谷が広がっている。爐は斬馬刀を大げさに振り回し、脇に構えると彼に向かい走る。
(――今じゃ)
 駆ける。
 心の臓を抉る愉楽への期待。止めを刺すことへの執着。狩りの完遂に向けた勝利の予感。いずれをとっても、爐の行き過ぎた戦いへの熱は、即ち、隙だ。
 この時の朧はただぼんやりと爐の方向を見つめていたが、正確に彼を捉えていたわけではなかった。だが、彼女はふいに覚った。己は必ず爐を捉えられる。決して慢心ではなかった。爐の息の根を止めることばかりを考えていたらば、きっと爐は朧の気配を察して逃げだろう。駆ける速さも、手に持つ柄の温かさも、足裏の土の固さも、何も感じては居らなかった。反対に全てを感じて把握していたからこそ考えずに心のまま体が動いたとも言えた。だからこそ、爐を捉えられぬ理由が見つからない。
 朧の腕が自然に上がり、爐の身体に切先を突き出す。引き締まった肉に刀がねじり込む。彼女はその肉の筋を持てる力で貫く。肉を裁ち、温かい液体が噴き出して、彼女の腕や腹を真っ赤に染めた。まるで爐の血が朧を離すまいと絡まってくるかのようだった。
「て、めェ」
 爐は己の脇腹が貫かれているのを驚きの眼差しで見ると、斬馬刀を捨てた。咄嗟に腰の小刀を抜いて、まま片手で彼女の上腕を背後から突き刺す。そしてもう一方の手で抱き寄せる。
 ぐらりと爐の体が傾く。突き刺した衝撃で二人の体は崖へ投げ出され、暗い谷の宙にふわりと浮いた。
「てめェも道連れにしてやるよ」
 眉間に苦悶の色を浮かべながらも口角を吊り上げて笑う。朧もそれに呼応してにやりと勝ち誇るように笑った。
「いいじゃろ。連れて行かれてやるぞ。雷神の宮にでも、地獄の釜にでもわしを連れて行くが良いわ!」
「はんっ! いい度胸だ……!」
 爐は決して刀を離さぬ朧をきつく抱きしめた。刀が更に深く、彼の脇腹を抉る。体内から沸き上がる血潮が吊り上がった口の端からつうと零れ落ち、顎を伝って朧の額を濡らした。
もはや抗うことの出来ぬ暗闇の狭間に吸い込まれる塵の如く、二人は風刻の谷の闇の中へと姿を消した。



 暗闇の中を紅梅色の首巻がひらりと舞う。
 東雲は傷を負った胸を押さえながら谷底を覗く。人影がみるみるうちに遠のき、遂には生い茂る木々の暗がりの中へ消える。ただの一つの色も残すことを許さぬように、闇の奥底に引きずり込んでこの世から遮断してしまう。まるで初めからここに存在して居らなかったかのように。
「朧!」
 彼はその光景を眺めながら、どうすることも出来なかった。ただ、谷に消えた朧の名を幾度となく叫ぶ。信じがたい光景に眩暈を起こしそうだった。否、起こしてしまえば楽だったのかもしれない。だが、東雲の意識ははっきりと朧が闇に沈み、消えゆく輪郭を捉えた。
「馬鹿な……。風神よ、何故朧なのだ……」
 彼は握りしめた拳を地に打ち付け、奥歯を噛みしめる。朧は己の身代わりになったのではないか。彼の胸に悔しさが押し寄せた。
 呆然と谷を見下ろす東雲の隣に、爐の従者の青年が立った。彼は冷やかに谷の暗黒を覗き込む。
「燃灯山の風神谷は風神の伝承以外にも輪廻の川が流れるという伝承があったな。彼らもじきに修羅道を廻ることだろう」
 爐の死を確認する眼差しは淡々として、西の将へ忠誠は感じられなかった。その証に谷に姿を現した当初から彼は戦いに参加する意思もなければ、爐を助太刀する意思すら微塵も出さなかった。爐が――西の将が斃された今でさえ、彼は敵を討とうとは思っていない。洞穴のように真っ暗な瞳に哀悼の念は見えず、心は寸分も動かされていないようすだった。
 従者は暫く谷を眺め、もはや爐が谷を登ってくる希望がないことを確認すると無表情のまま踵を返す。
「風刻の将よ。今は戦わぬがいずれ『弥勒の書』は貰い受ける。暫くはその傷を癒すが良いだろう」
 彼は敗軍の最後の生き残りになっても尚悠然としている。いでたちこそ下忍と変わらぬが、堂々とした立ち姿は爐よりも将たる器を内に抱くよう感じられた。
「貴殿は……」
 東雲は立ち上がる。もはや同胞の死を嘆いてばかりではいられなかった。
「西北の将・葉陰(はかげ)」
 名をぽつりと呟くと、彼は瞬く間に姿を消す。胡乱という言葉が似合う男だと東雲は薄ら寒く感じた。この場に“居る”のに“居ない”と感じさせる忍びらしい忍び。爐の他にもまだ警戒すべきは多くあるのだと思うと、去りゆく者だけに心を割くことは出来なかった。
(すまない朧。私だけ戻る)
 もう一度谷を見やり、今度は二度と振り返ることなく長いかずら橋を引き返す。そして、これ以上の災禍が土地を襲わぬよう、橋を渡す綱を断ち切ったのだった。



 朧は視界を薄く開いた。黒がある。
 底の見えぬ黒だった。陽の差し込まぬ地下の暗がりと違い、夜の闇とも違う。これは地獄が大口を開いて待っているのだ、と彼女は思った。何故なら、地獄の音がするのだ。ごご、と四方から黒の唸り声が聞こえる。今まで手にかけてきた怨霊の声だろうか。
 谷から落下したというのに、妙なことに空に浮いているような気分だった。頭が既に夢うつつなのだ。己の命が辛うじて虫の息ほどまだだがあると自覚したのは、爐を突き刺した刀から伝う冷ややかな血のためだった。彼は虚空を見つめて動かない。手に降りかかるのは彼の生の残滓だ。
 多くを殺した。今もまた一人。
(最後は自身か。十六夜、お前と同じ谷底だな)
 彼女はふと腹の底から可笑しく感じた。何故谷に飛び込むようにしたのだろうと己に問うてみれば、答えはただひとつ。無である。
 思えばあの時、生死の迷いは露もなかった。機を見計らい、時が訪れ、体が自然と最善へ向かっていたのだ。恐らく十六夜も死に際に同じ心境であったのではないだろうか。そう考えると納得がいった。長らく身の中に飼っていたわだかまりがすとんと腹に落ちてきたのだ。
 不思議なことに、朧にとって“死ぬ”という選択はこれまで一度も存在しなかった。例え僧院で辛い目に会おうが、十六夜が死のうが、後を追いたいと考えるのはほんの一時の熱情で、心の底からの叫びではなかった。
 反対に、死ぬものかという気持ちは心の中央に礎石のように居座って、身動き一つ取らなかった。生きるための目的や生きたいと思う理由があるわけではない。ただ、生きることそれ自体が彼女にとってはひとつ、己の価値であった。生きた証しを残すのではない。波打ち際の足跡のようにつけては消える刹那の軌跡こそが証しなのだ。消えるということは即ち、そこにあったということ。存在の証明。
 だが、醜いほどに執着し、別れ難く、渇望し続けた生と遂に袂を分かつ時が来た。誰かの力で強引に引き剥がされなくては、永久に求めたであろう生。疎ましく、その存在に嘆き、終えたくとも終えられなかった生。それがやっと終わる。
今生と別れることは苦ではなかった。
 思えば彼女は大海の奔流から逃げ出した一滴の水だった。一滴の水が五百枝の支流で“朧”と言う仮初めの生を得て、今漸く元の潮流に還るのだ。予感や前触れというのは、決して自身では運んでは来れぬ。見えない圧倒的な力がその命運の星を気まぐれに闇の中に落とす。
 不思議と走馬灯は訪れない。
 里にこそ大切なものがあると断じていた癖に、死に際になっても自然と浮かび上がって来ぬとは何たる薄情者だろうか。
 何となく心当たりがあった。
(夢じゃ……。夢が終わる)
 朧にとって、里の生活は幻のようだった。いつ瓦解してもおかしくない、理想郷のような夢だった。
 夢の中に営んでいるのか、営んでいること自体が夢想に過ぎないのか、確かに現実であるはずなのに思い返せば夢心地しかしない。
 本当の現実は戦いのさ中にしか見出せなかった。人を殺すその瞬間にだけ、彼女は生きている現実感を得る。肉を裁つ感覚と温かい返り血を浴びたその時だけ、己が冷たく死んだ骸でなかったことを思い出す。
 里への恩を返すためと忍び働きを積極的にこなすのも、一方では言い訳に過ぎなかった。恩返しとしての意味あいよりも、己が生を感じるための意味が強かったのかもしれなかった。
 そんな卵の殻のように脆い、綱渡りのような今生も遂に終わる。終焉の亀裂に身を任せれば、黒は大きなかいなを広げている。
 しかし、同じ谷底に落ちるというのに、何故だろうか、恋しい育て親とまるで会える予感がしなかった。それどころか、会いたいと思う人はこの淵の向こうにはまるで居ないようだった。
 天地の唸り声が朧の頭を満たした。
 むせび泣くような風の声がする。これは亡者たちが現世に執着する泣き声ではなく、己の胸に満ちる悔いの泣き声――生への執着の泣き声だったか。助かる手だてもない今でもまだ、己は生きたいと願うか。
(まさか。……潮騒じゃ。亡者の潮騒じゃ)
 彼女の唇が白に染まり、緩やかに曲線を描いた。風神の唸りは潮騒のように押し寄せて、それっきり彼女から五感の一切を奪った。




 表紙 

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