第六章 潮騒(2)

 風刻の谷は古くより風神が住まうという伝承がある。千尋の谷の形相に相応しい切り立った崖は底に進むにつれ徐々に狭く細くなって行き、その涯が如何なる様相をしているのか知る者はなかった。
 また、崖は風神の通り道とも言われ、その谷間を、時に妙齢の女が悲しみ泣き縋るように、或いは男の雄々しい猛り声のように風がこだました。傍には風神を祀る社が建てられ、村人の心の拠り所となっている。と同時に、風神は畏怖の対象でもあった。この谷の風神はもっぱら贄を好むと里の伝承にも伝わっている。未だ数年おきに村人が谷底に攫われてしまうのはそのためなのだと。
 この谷について一つ確実に言えることは、落ちれば死だけがあるということだ。今までに幾人が落ち、死に絶えたのか計り知れぬが、帰還した者がいたという話は終ぞ聞いたことがない。
 風刻の里は長らくの間、この地の利を利用して里の安全を守ってきた。谷を結ぶかずら橋は一見するよりもずっと頑丈な造りだが、橋が架けられているということはいかなる者にとっても侵入する経路があるという意味だ。
 朧が谷に到着した時、雷神の宮の軍勢は未だ橋を渡りきってはいなかった。
 雷神の宮の常盤なる人物がどのような者か、朧はまるで知らぬ。常盤が実父である病身の長に代わり、現在雷神の宮を取り仕切っていること、そして彼の本分が忍びではなく神職であることだけは伝え聞いている。
 朧には常盤が秘密裏に藤間郷の襲撃を命じたとは考えられなかった。全くあり得ぬ話だと決めるには至らぬが、紫雲に対話を求めるような人物だ。常盤が忍びの恐ろしく、かつ卑怯な顔を持たぬ男だと仮定すれば、長らく続く里同士の確執をより固くし、溝を深めようとはしないだろう。
 しかし、当然のことながら、そのような性質の頭であれば、雷神の宮内での人望が二分されることは想像に難くない。雷神の宮では風刻者に対して、古来より土地の正当な保持者であると声高く主張されている。敵に歩み寄る常盤の姿勢に反発する者は少なくない。雷神の宮が一枚岩でないことを知っているからこそ、紫雲も会談の呼び掛けに応じたのだ。
(雷神の宮内の反乱分子という訳か)
 だが、どちらにせよ此度里へ襲来する忍びたちは、風刻者の長・紫雲とその側近たちの不在を狙って決起したに違いなかった。
 狼煙を上げた守衛の忍びと持ち場を交代する旨を伝え、朧は刀を握り直す。深呼吸をして耳を澄ますと、草根を掻き分けて複数の忍びが波のように走ってくる音が聞こえた。
(西将軍・爐率いる忍びの軍勢か……。どのような使い手とも分からぬがやるしかない。そのために今まで業の研鑽に励んできたんじゃ)
 最悪の場合――戦闘が里の内部へ食い込むような事態が起きた場合、大げさに言えば里にとっては死活問題になりかねなかった。特に策を練るのを得手とする上忍がこぞって紫雲の警護に回り不在にしている今、例え戦闘に長けた忍びが多くとも里の守りは薄い。策もなく闇雲に敵に斬りかかることで逆に急所を突かれかねぬ。よって、ここでどれだけ手勢を減らせるかにかかっている。少しでも長く時間を稼ぐことが肝要だった。
 朧は橋を渡りきると、袂で来たる敵に備える。首巻で顔を隠し、額金の結び紐を縛る。精神を研ぎ澄ますように丹田に息を吸い、気位を高める。足音からおよそ四十の数を割り出す。全ての忍びが手練れであれば厳しい戦いとなる。一度に複数を相手をしないためには、橋の袂で道を塞ぎつつ戦うことが最善と考えられた。
 人を斬る行為は朧にとって難のないことだった。八人衆の面々が彼女に与えていた仕事もまた人を斬るものばかりだったからだ。この勤めが彼女に与えられたのは尤もで、彼らの家は生粋の忍びではなく、本脈を辿れば武家に連なる。その矜持ゆえ。
 ために、朧には忍びの本分である諜報ではなく、忍びならざる下賤の者の勤めが回された。勤めを繰り返すうちに、彼女はすっかり血を浴びることにも骨を裁つことにも慣れてしまった。雲の切れ間のような一瞬の隙に、一刃で相手の命を絶つにはいずこに刀を走らせれば良いかを読み取ってしまう。平穏な日常の中にあっても、ふいにそういった目で人を量っている。忌まわしい眼を持ったものだと自嘲したこともあったが、今こそその心眼がが真価を発揮する時であった。敵の戦意喪失を狙って小さな傷を負わせるのではなく、最小の動きで撫で斬りしなければならない。
 彼女は無形の位の体(てい)を取る。一見無防備に手をだらりと垂らしているようだが、この構えとも言えぬ構えはすぐにでもかかってきそうな敵に即座に対応出来るのである。
 浅く深呼吸をする。鼻孔から山の気が入り、体内を浄化していくようだった。
(――来た)
 神の山の斯くも冷たき気が全身に満ち満ちた瞬間、朧は稲妻のような一閃を横一文字に走らせた。
 血煙が走る。
 紺の装束に身を包み先陣を切る雷神の宮の忍びを、彼女は一太刀で斬り伏せた。
 次に首が宙を舞う。手応えは想像していたほど重くない。
 一人斬っては刀を翻し、次を誘い込み、また斬る。しなやかに、軽やかに、或いは跳ねるように。彼女の切っ先は水を泳ぐ魚のように滑らかで力強い。刀は使い手に呼応するように確実に相手の急所を仕留めて命を奪い去る。こうして彼女は立て続けに八人を斬り捨てた。
 瞬く間に多くの命が奪われたとあって、雷神の宮の軍勢は闇雲に橋に飛び込むのを辞め、じりりと朧の出方を窺う。未だ息は上がっていなかったが、全ての軍勢を朧一人で片付けることは不可能だった。
 どんな熟練の使い手にもいつかは体力の限界が訪れ、隙が出る。隙が出て間合が狂い、或いは焦りが生じれば多勢に無勢となるに違いなかった。
(楸は無事疾風たちに会えたじゃろうか)
 敵が退却せぬ以上、朧には一刻も早い援軍の到着が必要だった。ふと、半刻も経たぬというのに、楸との稽古がひどく遠い過去に感じられた。



 楸は放たれた矢のように屋敷に向かい、息を切らせて藤間屋敷の玄関に立った。
「火急の用件……です!」
「おや、どうしましたか」
 玄関に現れたのは彦四郎だった。穏やかな面容の彼は東雲とともに里の留守を預かっている八人衆の一人だ。
 楸が雷神の宮の爐が急襲してきた旨を伝えると、彦四郎は驚いて直ぐに近くの手下に声をかけ、人を呼び集めるよう指示する。彦四郎が子どもの戯言だと端から疑わなかったので、楸はとりあえず安堵した。だが、事態は重かった。急ぎ谷へ向かわなければ、朧の命運が危うい。
「俺にも何か手伝えますか」
 楸はじっと待つことが出来ず、彦四郎に命令を乞う。いつもならば下忍にもならぬ若輩の手出しは無用と言われるところであったが、彦四郎は楸の真剣な眼差しを汲み取ってか、穏やかな声音で、
「ならば若と東雲を評定の間に呼んでくれますか。恐らく若の寝所にいるでしょう」
 と命じた。
「承知しました!」
 声を張り上げて返事をすると、楸は足音を控えめにして屋敷の中を小走りで飛ぶ。楸にしてみれば、人を掻き集めている時間すら惜しかったが、作戦を練らずに戦いに望めば余計な死人が出ることになり兼ねない。そう、疾風や朧から教わった。掻き集めた忍びを統率するためには、やはり一旦評定の間に参集する必要があるのだ。

 評定の間に参集した里の忍びたちは皆一様に緊張の面持ちでいた。今の状況が各々に八年前の戦を思い起こさせた為かもしれないし、久しく有事に当たっていなかった為かもしれなかった。
 八年前の戦後も雷神の宮は谷向こうよりしばしば侵入を謀っていたが、刀を交えるまでには至って居らなかった。過去の戦の記憶が残る忍びに限らず、彼らの家族もまたいつかは決戦に臨まなければならぬ運命にあることを薄々悟っていたであろう。遂にその時が来たのだと。
先陣は彦四郎を措いて東雲が率いる一団に任された。
 彦四郎は順忍――これは従順に見せかけて相手の油断を誘う性質の者である――としては非常に優秀ではあったが、対雷神の宮の一将としては武力に些か難があった。東雲よりも武に長ける疾風は、長・紫雲の名代であるため藤間屋敷に詰め、いつでも動けるように身構えておかなければならない。加え、跡継ぎに万一のことがあってはならぬと前線へ赴くのを他の者たちに止められたのだ。
 朧が戦っていると聞いてまず初めに飛び出して行きたいはずの疾風の心情を汲み取って、東雲は己が出陣することに決した。
 策は里に敵を入れぬことが前提として講じられた。
「やむおえぬ場合や戦を終えても追討の懸念がある場合は橋を落とせ」
 疾風は淡々と命じる。須臾、場がざわめく。
 確かに、かずら橋を落とせば谷の方角からの敵の侵攻を防げるが、それは村人の心の拠り所である風神の社への参拝路が絶たれるということでもあった。風神の社は先の戦でも唯一雷神の宮に侵されていない神聖な場で、この里が不滅である象徴と里の年寄りたちは捉えている。と同時に、この道は数少ない整備された道のひとつで、道幅が他の山道と比べて広いため下界への運送用路として重宝されていた。即ち、里の生活の地盤を支える道である。それを切り捨てる決意を下さねばならなかった。
 里さえ侵されなければ食糧や木材は暫く自給自足出来るし、足腰鍛えられた忍びの衆は多少遠回りの険路でも市井の民に比べて下界に辿り着くのは困難ではない。
「里の守りを第一とする。安易に深追いしたり、功名を焦らぬよう心掛けよ」
 東雲と彦四郎も頷く。
 疾風の口から発される一言一言が長の名代としての発言であり、彼らにとっては君命であった。彼らは若い名代の言葉の一つ一つを胸に刻み込み、漸く不安から生じた緊張を解いて、研ぎたての刃に似た忍びらしい鋭敏な面構えとなった。
「必ず務めを果たせ。――行けっ!」
 疾風が手を挙げると忍びたちは各々の役目を果たすため、矢のように四散する。傍に居た東雲もまた、彼と言葉を交わすことなく合図とともに姿を消した。

 楸は評定の間には入れてもらえなかった。
 己を作戦に含めるよう、疾風にも東雲にもしつこく食い下がったが、二人とも揃って首を縦に振ることはなかった。
 理由は明白。彼がまだ下忍を拝命していない身分であるからだ。
 結局、二人はその場に居合わせた早良春に楸を託し、評定の間から彼を引き離した。春は楸の焦燥に駆られ傷付いた顔を見兼ねて、女衆の手伝いを頼んだ。出陣せぬ子どもが出来ることと言えば、老人や女衆の手伝いくらいのものだ。
「楸君、朧ちゃんが心配なのは分かるけど、私たちも私たちが出来ることをやらなきゃならないわ」
「春姉ちゃん……」
 春の言うことは尤もだった。それに、疾風たちが首を縦に振らなかったことも理解していた。腹は立つが理不尽なことではないのだと。それでも、今この瞬間にも朧は戦っている。走り出せばすぐにでも辿り着く距離で彼女は戦っているのに、行ってはならぬと大人は言う。彼女が敵わぬ者に己が敵うとは毛頭思わぬが、近くに駆けつけて、彼女の背を守りたかった。いつもともにある朧の傍に行きたいのだ。行って、助けたいのと同時に、見届けなければならぬ。そう思った。深い理由はなかった。ただ、そうせねばと彼は思ったのだ。
 春には楸の気持ちが痛いほどよく分かった。かつて道順を度々戦場へ送った時、彼女も同じことを考えていたのだった。道順の背中が遠のくほどに、その思いは強く深く、そして鋭くなり、感情の切先が己を追い詰めていく。だが、追い詰められても傍には依れないし、決して依ってはいけないのだ。
 彼女はそっと楸の背中に手を添えた。
「これからきっと怪我人が出るわ。勿論出なければ良いのだけど、戦いというのはそういうわけにもいかないの。あなたには朧ちゃんが救おうとしている命を受け止めて確かなものにするお役目があるわ。だから、はい」
 楸の両手にさらしの束が渡された。怪我人が出た時に使用するものだ。
「朧ちゃんのことは忍びの方々にお任せしましょう。私は道順様のご無事も、朧ちゃんの無事も信じているわ」
 春は微笑む。彼女はいつ帰還を果たせなくなるかもしれぬ夫を常に笑顔で送り、涙を零すことなく待つ。此度も同様だったし、他の女たちも皆同様であるはずだ。楸が戦いに赴けぬことを役立たずだと断じてしまえば、彼女たちの所業も結局は怖気を隠蔽するための弁解と、楸自身が認めることになってしまう。待つ方も辛いのだ。時が過ぎるのを待ち、次の報を待つ。気丈を強いらされることに耐えねばならぬとは、なんと強い精神の力を要求されるのだろう。ここもまた戦場の渦中に違いなかった。
「うん……」
――今何が出来るか、常に問うておけ。
 楸は先の朧の言葉を思い出すと、腕いっぱいに抱えたさらしの束に視線を落とし、春の促すまま評定の間を後にした。




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