第七章 挽歌(1)
 晴天は鉛を流し込んだような重苦しい色に染まり驟雨を降らせた。滝のような雨音と轟く雷鳴に全ての音が打ち消されたかのようだった。
 東雲の一団が凱旋したのは、日が丸い輪郭の顎を山際に触れさせた頃だった。最後の一人である東雲が藤間屋敷へ戻ると、女衆が少数の怪我人の世話をしていた。辛うじて死者は居なかった。爐に斬られた東雲が一番深手を負い、多く出血していた。意識を保ったまま里に帰還できたことを帰路合流した麾下の中忍をはじめ誰もが驚いた。幸い、爐によって斬られた場所は表面の肉を裁つのみで致命傷ではない。それに、雨に濡れる前に帰還できたので、体力を奪われずに済んだ。それでも、女衆は急ぎ薬に綿、そしてさらしを用意し、手厚く介抱した。
 里は未だ警戒を緩めては居なかったが、各地点に派遣された忍びたちの帰還によって徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。夕方からの驟雨で、雷神の宮が再び陣を立て直し、攻め入る可能性も殆ど消えた。
 この一連の事件は疾風の飛ばした忍びによって、遠く離れた長・紫雲と八人衆の元にも届けられた。第一陣として派遣された忍びによって開戦免れぬことが報じられ、第二陣の忍びによって戦いの終結と損害の報告がなされた。
 一人目の忍びの報告によって、紫雲と雷神の宮の代表である常盤との会談は打ち切られ、帰路の道中で終結の報を耳にした。紫雲たちは急ぎ馬を走らせて夜更けには里に帰還する予定とした。爐の襲撃が常盤との会談にどういった影を落としたのか、里に居る疾風たちには知る由もない。但し、里の誰しもが良い方向に進展していくとは到底思えなかった。




 女衆の元で働いていた楸は、突然東雲配下の中忍に呼ばれ、東雲の横たわる部屋に通された。
怪我人の手当がまだ終わらず、屋敷は女の足音でぱたぱたとしているというのに、急に仕事の手を止めるよう命じられ、楸は腑に落ちないながらも命令に従った。
 一体どうしたことで呼び立てられたのか、彼には皆目見当がつかなかった。だが、敷居を跨いだ座敷の気配は暗澹たるもので、その場に居るだけで不安に押し潰されそうだった。只事で呼ばれたのではないのだろう。
 部屋には蒲団に伏した東雲と、その枕もとで俯きがちに物思いに耽る疾風が居り、楸を間に通すと、案内役の中忍――この男は下界の熊谷分家より派遣されてこの郷に居る為にあまり話したことはない――は東雲の枕元に座った。
「急な呼び立てをしてすまない」
 東雲が中忍に支えられながら精彩に欠く様子で力なく身を起こす。
「東雲様、傷を負われたんでしょ? 寝ててくださいよ……」
「大した傷ではない」
 そんな筈はなかった。楸の目から見ても東雲は疲弊しており、眉間に苦悶の皺が現れている。身なりには人一倍気を遣う彼が、手当したさらしの上から衣を羽織るだけで袖を通していない。傷のせいで袖を通せないに違いなかった。
「楸、お前に伝えねばならぬことがある」
「……? 何ですか?」
 楸は不思議に思いながら、東雲の手招きを受けて疾風の隣に坐し、彼が発話するのを黙して待つ。東雲は言葉を如何にして紡ぐか長考していた。
「落ち着いて聞いて欲しい。朧のことなのだが――」
 口を開けたものの、東雲は一瞬言葉に詰まり、再び、暫しの間逡巡する。しかし、結局彼は途中で逡巡をやめ、言葉を繋ぐ。
「朧が谷に落ちた」
 喉の奥から捻り出すような声だった。彼は困憊した瞳の奥に罪悪感を浮かばせて首を左右に振る。
「え……?」
「恐らくは助かるまい」
 そう言って、消え入りそうな声で東雲が謝罪を口にする。楸は耳では謝罪を聞いていたが、頭では言葉の意味がすぐには理解出来なかった。
「谷……? 谷って風刻の谷、だよな……。ちょ、ちょっと待って、どういう意味だよ、それ」
 楸はただ、唖然として東雲と疾風の二人を交互に見る。
「そのままの意味だ」
 口を噤む東雲の代わりに疾風が答えた。
「ちょっと、そのままって……」
 尚も混乱する楸の不躾な態度を熊谷家の中忍が窘めようとしたが、東雲の視線を受けて抑え留めた。
(おーちゃんが……? 何だって……?)
 脱力する楸の横で、東雲は吶々と谷で起きた爐との諍いについて話し始めた。東雲は朧を伴って帰還出来なかった理由を詳細に語ったが、幾ら丁寧に一片の嘘も交えずに伝えども、今の楸には東雲の言葉を十分に咀嚼する余裕はなかった。語ることで報いようとした東雲の言葉が、却って楸の胸の裡をひやりと触れて熱を奪う。理解を拒むことも出来ず、動かぬ事実が唐突に氷柱となって胸を突き刺した。
――朧は死んだ。
 それは信じがたい事だった。つい数刻前までともに居た朧が死んだなど到底信じられるはずがなかった。
――爐を刺したのち、道連れとなって谷に落ちた。
 得体のしれない禍々しい闇が楸の体の隅々から力を奪っていくのが分かった。と同時に、腹の底から熾き火のような炎がちらちらと上がり、身を焦がす。彼は辛うじて炎を身体の中に封じ込め、東雲を責めようとする自分を諌めた。東雲を責めるのは筋違いであることは十分に分かっていた。彼を責めたくなるのは、何も考えずに怒りを発散させられる安易な方法だからに過ぎなかった。即ち、心の底では誰でも良いのだ。ただ己の暴力を気が済むまで受け入れてくれる者であれば誰でも構わなかった。
 東雲は東雲なりに重要な役目を全うした。朧はその過程で不慮の外に崖に落ちてしまっただけだ。里という大きな目で見れば、東雲が生き残ったのは幸いだった。将来中核を担う上忍と、一村人である朧を比べれば子どもでも分かる価値だ。
 しかし、だからこそ楸にはどうしても世の流れというものは道理が合わぬと感じた。恐らく朧の死が周知されれば、村人は表では彼女の死を悼みながら、心の底では里の将来を考えると、やはり東雲が死なないで良かったと態度で物語るだろう。それは、以前に朧が自らの口で語った“余所者”であるからに他ならない。同時に、斯様な考えに至る楸自身も心の何処かで無自覚に自分を余所者と位置付けているからに違いなかった。
 その孤独を埋めようとしたのか、楸はふと気付けば、苦し紛れを口にしていた。
「もしかしたら、まだ、谷底で怪我して生きてるかもしれない……」
 ぽつりと呟いて楸が何と馬鹿馬鹿しいことを口走ったのだと思ったが、この場の誰もが楸を責めたてようとはしなかった。彼とて橋を渡ったことがない訳ではない。橋の下に広がる底の見えぬ急峻に落ちればただで済まぬことは一瞥しただけで容易に分かる。
 朧が生存していると主張する楸を誰もが正気の沙汰は思ってはいなかった。だが、疾風は敢えて首を振る。
「谷に落ちて生還した人間は存在しない。風刻の谷は甚だ奇妙な地形をしていて、崖下から回り込もうと試みても橋の真下に入り込めないんだ。仮に一命を取り留めたとしても救いには行けない」
 里長代行である疾風の判断は冷静だった。否。冷静さを保たねばいけなかったのだ。
 朧が傷を負いながら谷に落下したのであれば、まず体の自由は保障されていない。仮に生き延びたとしても後は失血か飢餓か、どちらにせよ死の道以外取り残されておらぬ。疾風は叔父である心月をはじめとし、十六夜の他様々な下忍が谷に落ちてその生を終えたことを知っている。楸の言葉に徒に同意して希望を持たせても、真の意味で慰めにならぬと心得ていたのだ。
「楸、悪いが遺体の回収も出来ぬものだと心得てくれ」
 疾風は言うなり立ち上がって場を後にした。楸がどこへ行くのかと問うても、長代行としての仕事は沢山あるとだけ言い残し、それっきり東雲が休養する部屋には戻ってこなかった。
 楸は裏切られた気分だった。疾風は冷たい。そう感じた。疾風だけは誰よりも朧を想っているから、きっと良きに計らってくれるのではないか。胸の裡にあった疾風への淡い期待は彼の退出とともに脆くも打ち砕かれる。目頭が熱を寄せて瞼を赤く染める。
「楸……」
 唇を噛んで感情を押し留める楸に東雲が声をかけた。楸は両膝の上で握り拳を固く結び、視線はずっと畳の目に落としたままだ。
「すまない。朧を連れ帰ることが出来なくて申し訳ない。お前に辛い思いをさせる」
 楸は答えなかった。東雲は続ける。
「本来なら彼女はすぐに自由の身になるはずだったのに、俺が彼女の第二の生を奪った。お前の叱責は甘んじて受けよう」
 熊谷家の中忍がはっとして東雲を見る。熊谷家の次の棟梁としての矜持を打ち捨てる発言に取れたのだ。同時に、楸も顔をあげて東雲の病んでなお秀眉曇らぬ面を見つめた。だが、楸が注目したのは熊谷家の中忍とは全く別のことだった。
「自由の、身……、第二の、生……? 待てよ、東雲様。それどういうことなんだ」
「楸、朧は長より一介の者に戻るよう命じられていた。つまり、忍びの真似事から一切の手を引き、足を洗うよう言われていた。そして、この里と縁を切り下界で暮らすようにも」
「そんな……。俺、聞いてないよ……。そんな大事なこと、聞いてない……!」
「言い出し辛かったのだろう」
 やっと合点がいった。朧が何日も稽古を休んで家の整頓をしたり、仕立てをしたり、或いは珍しく縁日に誘ったり……。全ては里を離れる準備だったのだ。そして、楸は恐らく里に置いて行かれるはずだった。共に連れ立って里を出るつもりはなく、朧は一人で姿を消そうとしていたのだ。
「ひどいよ、おーちゃん……」
 東雲は声を震わす楸に手を伸ばしたが、胸の疼きの所為で、その手が届くことはなかった。
「長は朧が“風の霞”の名で、長年泰光様たちの元で秘密裏に忍び働きを科せられていることに薄々気付いていたのだろう。彼女を出奔させれば危険な目から遠ざけられるとお考えになった。だが、貴殿が藤間郷へ身を寄せたのは忍びになるため。その願いを叶えるためには朧はお前を置いていくしかない」
 朧が一体どのような忍び働きに加担していたのか東雲は知らぬ。ただ、己の命を危険に晒すことはあったのかもしれない。何故なら、先ほども戦いに一切臆さなかったし、誰が見ても新兵ではなくむしろ手練れだった。本来ならば里の女は皆、実戦などまずしたことがない。加え、例え男であっても一度も実戦をしたことのない忍びがあのように闊達に動けるはずがない。東雲は、もしかすると己が想像する以上に、朧は危険な橋を渡らされていたのかも知れぬと思った。
「楸、朧がお前のことを考えないわけがないじゃないか」
 東雲は白々とした額を重たげに支えた。楸だって本当は分かっているはずだ。
「それでも! ……俺はおーちゃんと一緒が良かった」
 ぽつりと呟く。本心から言っていることは誰の眼にも明白だった。
「そんなことは言うな。俺もお前も、朧が命を賭して守った命だ」
 東雲は深く息を吐き、お付きの中忍の勧めによって蒲団に横たわる。傷の手当をしたばかりだというのに、長く起きすぎていた。
「忍びの地位を持たぬものが、最も忍びらしい最期を遂げるとは……」
 何と皮肉なことだろう。
 無言で畳を濡らす楸の横で、彼は瞑目した。




 紫雲と八人衆たちが郷に戻ったのは夜半を過ぎてからだった。雨はすっかり上がり、薄らと笠を被った月が白いおもてを照らしながら、未だ緊張の解けぬ風刻の里を見下ろしている。
 下界より帰還した紫雲たちは、評定の間で疾風と彦四郎より報告を得た。常盤との会談は、紫雲を除いた誰もが爐の侵攻によって徒労に終わるであろうと口を揃えて予測し、深い溜息を吐いた。
 評定を一旦解散させた後、紫雲は疾風と東雲の二人を寝所に呼んだ。はじめ、紫雲が東雲の床へ赴こうとしたが、東雲が恐れ多いと自ら足を運ぶことにした。
「弥勒の書、か……。雷神の宮の将は確かにそう言ったのだな」
「はっ。確かに」
 蝋燭の淡い光が橙に闇を照らし、紫雲は目を覆うように眉間を抑える。悩ましげな双眸に、二人は『弥勒の書』は決して存在せぬ眉唾物ではないのだと覚った。
「長、『弥勒の書』とは一体如何なるものなのですか」
 彼らは一刻も早く真実を知りたかった。この期に及んで紫雲が『弥勒の書』に関して語らぬはずはなかったが、曖昧な輪郭をした虚実どちらともつかぬ物の正体を早いところ掴みたかったのだ。
 真実を探求する鋭い光を湛えた若者たちに急かされ、紫雲は膝の上に両手の拳を置くと、そのあらましを語り始める。
「里に伝承がある」

『昔、山に鬼がいた。
 鬼たちは夜になると集落を離れ、山を下り、麓の村を襲った。男は殺され、女子供は攫われ、食糧は奪われた。
 困り果てた麓の村は勇敢なもののふを募り、鬼退治に行かせる。しかし、恐ろしい鬼の力の前に敵う者はおらず、数多のもののふが山中に消えた。
 やがて鬼の悪行は麓の村にとどまらず、周辺の村々に及び、ついには戦となる。戦は何年もおさまるようすが見られず、人も鬼もともに疲弊していった。
ある時、旅の僧が偶然付近を通りがかる。僧は鬼の噂を聞いて村長に言った。
「私は法術が使えます。この戦いをおさめてご覧に入れましょう」
「しかし、今まで数多のもののふが鬼を退治しようといたしましたが、ついには戻ってきませんでした。いわんや僧のあなたに恐ろしい鬼どもが倒せましょうか」
 不安げな村長の言葉に、僧は七彩に輝く巻物を見せる。
「私の秘術で成敗されぬ悪鬼悪霊はおりませぬ」
かくして、僧は山に入り七彩の巻物を広げ呪文を唱えた。すると巻物からまばゆい光が飛び出し、鬼ともののふたちに降り注いだ。彼らは皆、刀を納めて僧にひれ伏した。
「七彩の巻物は即ち弥勒の手である。この弥勒の手の前では如何なる者も力の効力を失いましょう」
 僧の言葉の通り、鬼は調伏され、以後他の村を襲わなくなった。
 僧は七彩の巻物を三つに裁ち、過去の教訓として代々伝えらるよう鬼と人に分け与えた。
悪さをする者が居れば、この七彩の巻物が再び揃って懲らしめるであろう、と。
 鬼はこれ以後、人と境界を別にして住まい、よく人に仕えた。
こうして泰平が訪れ、皆幸せに暮らした』

 東雲は顎を摘まんで唸った。
「その伽噺、母から聞いたことがあったような気もいたしますが……」
「私は初耳だ」
 疾風は複雑な面持ちで東雲を見た後、
「まさか伝承の七彩の巻物が『弥勒の書』だとおっしゃるのですか」
 と父を仰ぎ見る。紫雲は首を縦に振る。
「いかにも。この伝承は代々上忍を輩出している家の跡取りにのみ口外無用で伝えておる。疾風、お前には時期が来たらいずれと思っていたが、香が死んでから忙しく、雷神の宮とは停戦の取り決めをした故に、まさかたった数年で再び書を巡る争いが起きるとも思いよらず、話す頃合いが遅れた。すまぬ」
「なぜもっと早くに話してくださらなかったのです」
 疾風の言葉は穏やかさを装っていたが、明らかに非難の色を含んでいた。これほどまでに大事なことを隠されていた事実は、少なからず疾風の矜持を傷付けた。後継ぎとして少しは認められているのだとばかり思っていたし、此度は長の代行として任ぜられたのであるから、里の全てを把握していたかった気持ちが強かった。故に、父の対応は寂しくもあった。
 紫雲は息子の非難を静かに受け止めた。
「幼い頃から聞いていれば自然と頭で覚えるだろうが、それによって単なる伽噺だと捉えて欲しくはなかったのだ……。だが、わしは誤ったようだな」
 父子の視線が交わる。だが、疾風は答えようとはしなかった。口を開けばいらぬ言葉が突いて出るとも限らなかったし、仮に『弥勒の書』について知っていたところで、戦いで素早く打って出る対策はなかっただろう。
「それで、我々をお呼びになられたからには詳しくお聞かせ願えるのですよね、長」
 東雲が二人の間を割る。
「犠牲者が出た以上、私も若輩ながら八人衆の一人として、疾風殿同様、やはり書について知っておきたいのです。どうか」
 頭を垂れた東雲を前にして、疾風も頷く。
 紫雲は立ち上がり、部屋の隅に置かれた文机の上から桐箱を二本取る。蓋を開け、中から紫と松葉色の巻物を出し、二人の前に並べた。薄らと樟脳の香りが漂う。紫の巻物はどっしりとしていたが、対して松葉色の巻物は、その殆どが軸ではないのかと疑うほどにほっそりと痩せこけていた。紫雲はその内、紫の巻物の紐を解く。
「これが我が里に伝わる『弥勒の書』人の巻だ」
 二人は息をのんだ。
「これが……」
「ふうむ。奇怪な書ですね」
 金粉のあしらわれた紫色紙料には不可思議な文字が羅列されていた。否、羅列されているからには文字であるはずだという想像を見る者に働かせるだけで、正確には文字ではない。見たこともない記号であった。
「暗号でしょうか」
「恐らくは」
「他の巻も同じようなものなのですか」
「恐らくは」
 二人の矢継ぎ早の質問に紫雲は落ち着いた様子で答える。
 草書で書かれた文字とも、或いは忍びの使う独特な暗号文字にも似ていたが、その両者とも違っていた。文字は時に円や四角に装飾され、曼荼羅のようにも見える。内容が分からずとも、誰もが一目この書を見れば、その一言一句の内に神秘が織り込まれているのだと思い込ませる力が秘められていた。
「まず『弥勒の書』は三巻ある。天の巻、地の巻、そして人の巻だ。天の巻は雷神の宮の宮司一族――即ち現在では常盤殿に伝わり、人の巻は藤間家、即ちわしに伝わっておる。これは伽噺の鬼が即ち雷神の宮の祖先――元々は海より流れ着き、この地に集落を築き上げた原住の民であり、もののふがわしらの祖先であることに起因すると考えられておる」
「確かに、以前我々の先祖は中央から派遣された武官だったと教わりました。まつろわぬ山の民を平定するように命じられ、やがてこの地に居を構えたのだと」
 疾風は幼い頃に玉秀斎より聞いた藤間郷の歴史を思い出す。
 鬼と呼ばれた山の民。時代のうねりの中で、敵対するだけでなく、損益によっては時に協力し合うこともあったと教わった。だが、生活形態が農耕中心である麓の民やもののふの末裔と、狩猟中心の山の民とでは、根本的な考えが異なる。
 山の民と諍いが起きるのは想像に容易い。
 特に雷神の宮は遥か昔より彼らの住む招雷山、風刻の里のある燃燈山、そして麓の民からも信仰を篤く寄せられている弥勒山の三山を聖地と崇めてきた。故に――雷神の宮にとっては――余所者が山に分け入り定住するというのは、神聖な土地を穢された上、勝手に領地を荒らされたに等しい。
 そういった理由で雷神の宮との小競り合いは昔から幾度となく繰り返されてきた。
「先の戦いもただ藤間の領地を狙っただけではない。同時に『弥勒の書』をも狙っておったのだ」
「何故彼らは執拗に書を狙うのです」
 疾風が問う。
「悪鬼悪霊を退散せし強大な秘術を手に入れるためだ。伽噺の鬼を退散させたのだから、現実には人に危害を加えることが可能な術ということになる。書さえ揃い、術を行使できればこの土地を奪うことなど容易い。既に雷神の宮の“回帰派”は常盤殿の制止を無視して動き出しておる」
 二人ははっとして紫雲に視線を注ぐ。
 回帰派とは雷神の宮八将軍の筆頭、北の将・燈(アカリ)率いる反常盤派だ。八将軍は先刻襲来した西の将・爐を含む雷神の宮の八方に立てられた塔の守護者であり、上忍である。即ち、断簡を獲得するために軍団の重要な手勢が割かれているということだ。
「ここへ再び襲来するかもしれぬということですか」
 紫雲は首を左右に振る。
「いや、当面は無いだろう。常盤殿がご健在の間はな」
 もうひとつの巻物を手に取り、疾風に渡す。
「回帰派は人員の多くを下界に派遣したようだ。近頃になって地の巻の断簡を再び集め始めておる。お前の手にあるものは地の巻の一部だ。それは亡き弟・心月がかつて僧院より授かったもの。開いて良いぞ」
 きっちりと結ばれた紐を解き、書を広げる。人の巻と同じような文字のような記号が墨書されている。
 巻頭の
『弥勒之書 地之巻
 御仏の授けし秘術を之に記す也』
の文字を除き、地の巻は二尺ほどで故意に裁ち切られていた。その直前には装飾的な蓮が散らされ、瑞雲に乗った如来たちが崖の上を飛来する絵が描かれている。
「地の巻は心月の手に辿り着く前にとある僧正が断簡にし、各院へ預けられた。心月の持つ地の巻も元は七尺ばかりあったのだが、雷神の宮の手に渡るのを恐れたあやつが僧正を真似て断簡にし、肌身離さず持っておった。だが、あやつは死に、地の巻の断簡は全て行方がはっきりとせぬ」
 紫雲の弟であり、疾風の叔父にあたる心月は先の雷神の宮との戦いに先駆けて起こった諍いで、敵将とともに風刻の谷で落命していた。
「だが、心月は生前、断簡の数は己の物も含めて三十六だと遺した。内四枚は先の戦い以前に八人衆が入手しておる」
「三十六――玄武国三十六か所参りですか」
 東雲の言葉に紫雲が深く頷く。
「左様。しかし、八年前までの調査で元の寺社から既に消えているものも複数ある」
 東雲は口元に手を当てて考え込む。
「我々も雷神の宮に対抗し、地の巻の断簡を集めねばならぬようですね」
「ひとつ気がかりといえば、雷神の宮は『弥勒の書』を解読しているのでしょうか」
「いや、まだのようだ。だが、殊呪術に関しては我々よりもやつらのほうが上手。先を越されて万が一のことが起きては困る」
 まことに秘術が存在するのであれば、雷神の宮が書の解読に成功することは里の存亡に関わる由々しき問題であった。
「我々も未だ人の巻と地の巻の断簡を解読が進んでおらぬ。解読出来たからといってこの里には呪術の使い手もおらぬ。故にやつらに先を越されてはならぬ。それに、即刻解読出来ずとも、長い目で見ても我等の武器になる」
 いかにもだった。しかし、疾風は父の言葉に素直に賛同することは出来なかった。これでは後手に回っただけで雷神の宮のやり口と同じではないか。そうならぬよう紫雲と常盤は話し合いの場を何度も設けているのは理解している。にも関わらず、結局は影で武と武のぶつけ合いを続けるのかと思うと辟易するのだった。
「それにもうひとつ気掛かりがある」
「いかなる気掛かりが?」
 疾風と東雲は、紫雲の硬い表情を伺う。
「断簡を狙うのは雷神の宮だけではない。理由は明らかではないが僧院の者も動き始めたと下界の忍びより伝わっておる」
「僧院の手の者が……?」
 『弥勒の書』を与えた僧院が自ら断簡の回収に乗り出すのはいささか不可思議であったが、これは秘術の書が暗黙のうちに重要であることの裏付けとも言える。
「して、私たち二人をお呼びになったからには、そのお役目、命じて頂けるのでしょうか」
 東雲が打診する。しかし、
「いや。お主らには別の勤めが控えている故、下界には楸を遣わす」
 紫雲が名を上げたのは意外な人物だった。
「まだ雷神の宮に顔が割れておらぬうってつけの者であろう。お主らを呼んだのはまずは師である者に話を通すため」
 眼差しは思いの外冷徹だった。忍びの首魁は時に冷酷に若者や仲間を千尋の谷に投じる度胸が無くてはならない。だが、朧を失ってすぐの楸には酷としか言いようが無かった。雷神の宮の屈強な忍び相手に死ぬ覚悟で挑まねばならぬのだから。
「無論、受けてくれるな」
 有無を言わさぬ声音に、二人は閉口するしかなかった。




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