第二章 二人の師(2)


 師の選定の日から二日、楸と疾風は未だに顔を合わせてはいなかった。楸は一向に始まらぬ忍びの稽古に、疾風が師となると名乗り出たのは、彼が上忍たちに体面を保つための口から出任せで、実は己の忍びの修行は立ち消えになったのではなかろうか、と仄かな不安を抱き始めていた。
 このままでは無為に時間だけが流れていきはしまいか。楸がそう考え始めるのにそう時間はかからなかった。
 というのも、同じ年代の子どもたちは既に親兄弟に稽古をつけてもらっているのを、野良仕事の往復で目の当たりにしていたからだ。ために、楸はせっかちになっていた。選定の日から稽古の始まりを指折り数えて、もう片手では数が足りなかった。
 疾風の姿はその間にも玉秀斎や泰光に伴っているのを何度か見かけたが、木陰からようすを覗く楸に気付く素振りは一切ない。少年の心の内には初夏にも関わらず、疾風への反発が落ち葉のように何層にも重なり上げられていった。
 朧も稽古のことには何も触れず、のんびりと構えていた。元々せっかちがすぎる性分でもなかったが、楸にとってみれば唯一親身になってくれて良いはずの人物だったのに、己を呼べば野良仕事の手伝いばかりだ。楸は数日の内に頬を膨らまして拗ねる癖が身についた。その癖も板についてきたある日、疾風が遂に稽古を始めるそうだ、と朧が言った。実に七日が経とうとしていた。
「お前も漸く忍びの稽古を始められるのう」
 外から帰ってきた朧が土間で草鞋の紐を解きながら言った。嬉しそうな顔の彼女とは対照的に、楸は折角の朗報にも関わらず拗ねていた。もはや師を選定する前に感じられた輝くような未来への高揚感はなく、こと八人衆や疾風に対してはひたすらに穿る姿勢だ。
「何だよ、こんなに待たせておいて! あの疾風ってやつもどうせ俺を教えたくないんじゃないのかよ」
「楸、あやつにも都合があるのじゃ。そう膨れるでない。……まあ大方泰光様たちに考え直せと言われておったんじゃろうな」
「俺の修行は長が許可したんだからあのおっさんたちは関係ないだろ!」
「こら楸、おっさんとは不躾な! ちゃんと呼ばぬか!」
 朧が楸の頬を両掌で押しつぶす。楸は膨らましていた頬をつぶされると今度は唇を突き出した。好き放題言われた相手に尊敬の念を持って呼べなどとは、まだ子どもじみた彼には到底無理な話だった。
「あのな、楸。わしらは里に代々お仕えしておる家系ではないし、加えて玄武国の人間でもない。となると上が五月蝿いんじゃよ」
「よく分かんないっ!」
 そうか、と朧は少しばかり呆れた様子で呟いた。
「まあそうじゃろうな。男子は神経質すぎる性質よりも少しばかり図太い方が良い。じゃがお前は図太過ぎるきらいがある」
「俺今けなされてるよね? それなら分かる」
 朧は楸の言葉に相槌を打つことも否定することもなく続ける。
「後ろ盾があるか否かじゃ。今の世は血脈を重んじる節がある。わしらのような外から来た人間というのは家名や血脈に則った後ろ盾はない。即ち、いつ何とき殺されても構う者がおらぬ。そこで疾風がお前の師になれば、少なくとも風刻の里に従う内は他の者に邪魔立てされることも消されることもなかろう。疾風がお前の後ろ盾となる。その間は人の綱も命の綱も決して悪い方には転がらぬだろう」
 不穏な話だ。朧は平然としているが、楸の平坦で穏やかな現実に伴わぬ不穏な話だった。
「で、でも、俺の後ろ盾ならもういるだろ!」
 楸は朧を指さすが、彼女はそれを払い除けた。
「ならわしの後ろ盾は誰だと思う」
 楸には答えられなかった。朧は誰かに従うばかりで――しかも楸にとってみれば、過剰ともいえるほどに上位の者には頭を垂れている――主従と言えど、協力的で好意的な関係を築いている者には心当たりがない。それにそういえば彼女の師も知らぬ。楸が頭の中で里の面々に当たっている間に、朧は奥の間から黒い棒のようなものを持ち出してきた。墨の塊にしては随分と大きなものだ。
「わしの後ろ盾はない。もう死んでしまったからな」
 朧は墨の塊を撫でて見せた。――位牌。赤や緑の瑞雲を冠した位牌の上には、明光院高照基龍居士と彫られている。
「十六夜と言ってな、八人衆の一人じゃったことは前にも少し話したかの。わしの忍術の師でな。戦で雷神の宮の将と相討ちになり、風刻の谷で亡くなられたんじゃ。末期(まつご)は火薬で将諸共爆死してな。その後谷に落ちてしもうた」
 だから遺骨もなく、墓も卒塔婆のみで中には幾つかの魔よけの品と縁故の品だけを入れているだけという。
 十六夜は本名を望月基芳(もちづきもとよし)といって、若くして上忍にのぼりつめ、家柄も格のある武家だったらしい。但し、奔放な性格で半ば出奔させられていたそうで、本家との繋がりは希薄だったようだ。そのため、望月家の縁故者は今では里には居らぬ。
 朧は、仮に十六夜が生きてさえ居れば強い後ろ盾となっただろうが、死んでしまった今となっては仕方がないと言った。それは朧自身が十六夜の死後に感じた、周囲――主に長周辺の側近たち――の風当たりの強さを実感していたからに違いなかった。
「いいか、後ろ盾があればそれだけで生きながらえることができるし、不自由も少しは軽減される。疾風が居ればお前はわしよりも盤石な地盤を築くこともできる。お前の母御はお前に生き長らえてほしいと願っていたに違いなかろう? ならば嫌だと思うても、疾風を利用するくらいの気持ちで下についておれ」
「おーちゃんの言い方だと、近いうちに諍いでも起こるような口ぶりだよ」
 死を前提にした話に、楸には朧が暗雲を予知しているように感じた。それに、朧は明言しなかったが、八人衆だった十六夜の後ろ盾よりも疾風の後ろ盾の方がよっぽど強固だとも暗示しているのも気になる。
「そうではない。別に戦も今すぐには起こらぬだろう。雷神の宮が何かしでかさぬ限りはな。じゃが、お前が忍びを目指すのであれば、死はもっと身近なものとなろう」
「そっから守ってくれるのがあいつだっていうのかよ」
「少なくとも今は実力の伴わぬ任を与えられ、無駄死にすることは免れるだろう」
 朧とは別の声がして、楸は戸口を振り返った。土間に男が立っていた。――疾風だ。静謐をたたえるようであって、奥に氷塊が潜んでいる。斯様な彼の冷ややかな眼差しを、身に纏った藍の着流しがより一層強めており、藤間屋敷の時よりもずっとにべもない態度だ。
「いつの間に……」
 戸を開ける音も足音も楸には感じられなかった。疾風は、忽然と姿を現す奇術でも使ったかのように、いつとは知らずに両腕を構えて佇んでいる。
「もう一つ、知っておいた方が良い。君の姿は玄武国ではやや奇異だ。私はそれで貴重な時間を随分無駄にした」
「なっ……!」
 楸は頭にかちんときて腰を上げた。まるで己のせいでとんだ損をしたと言わんばかりの態度だ。そのような師であればこっちから願い下げる、と喉元まで出かかったが、しかし、すぐに朧によって座り直させられた。
「まあ待て楸。で、泰光様をうまく説き伏せらんじゃろうな、疾風」
「ああ」
 疾風は当然と言わんばかりの表情だった。
「なら良し」
「良くないって!!」
 楸は今度こそ立ち上がり、朧と疾風を交互に見る。
「良くない!」
「楸!」
 朧の声を無視して楸は続ける。
「俺はあんたになんて教えを請わない! 俺を教える気もないし時間も無駄なんだろ! お互いに嫌なんだったらこの話はなしでいいじゃん! それともあんたは他の上忍たちによく見られたいからってそうするのかよ!」
 その次の言葉は出てこなかった。一気に話したせいもあったし、怒りのせいもあったし、そもそも目の前の男にどう怒鳴りつけてやれば相手が怯むのか考え付かなかったこともある。肩を上下させてじっと睨み付けるも、疾風にはびくとも堪えていないのがありありと分かった。
「君は朧に稽古をつけてほしいのだったな」
 疾風は履物を脱がずに囲炉裏端に腰を掛けた。
「だが、里がくノ一を廃したことは朧から聞いただろう」
 その通りだったが、楸はどことなく悔しくて、一切の相槌を打たなかった。ささやかな反発だ。
「昔話をしに来たつもりはないのだが、君にも一応話しておこうか」
「何を」
「何故我らの里からくノ一が廃されたか、だ」
「待て。お主からではなく、わしから後で言い聞かせる」
「いや、この際だ。私の口から話そう」
 朧の表情が俄かに曇る。本当に良いのか、と問いたげに疾風に視線を送るが、彼の態度も表情も、この家に現れてからずっと微動だにしない。そこからは彼が何を考えているのか
、読み取ることは難しかった。
「そもそも我らの里にはくノ一が一つの軍勢としてあった」
 疾風は言った。
 くノ一は文字通り女を武器にして諜報する。女を武器にするということは、男には務まらぬ身体を用いた任を担うことがあるということだ。ある時、くノ一の一人が任務をしくじった。諜報に失敗し、こともあろうに敵勢に後を追われた。当人は命からがら逃げ延びてきたが、このままでは里の在り処が敵に漏れてしまうかもしれぬ。そこで、くノ一頭は部下を庇って自ら敵と対決することを選んだ。時間稼ぎをするには一番強く利口な彼女が適任だったからだ。敵を欺くには他の者では力量不足であったし、彼女ならば敵をまいて一人で逃げ去ることも容易であろうと思われた。
 ただ、運悪く追っ手は敵将を含む精鋭だった。彼女は激戦の末、遂に敗れる。素性を知られる不名誉から顔を焼いて自害するのを選ぶほどの忍びだったが、彼女の場合は時間を引き延ばすためにそれすらも叶わずに死んだ。敵はくノ一頭を里への見せしめにしようと女の体を弄び、切り刻み、目立つように木にはり付けて、その血で獣を呼んだ。
 里から長たち他の忍びが到着した頃にはもう遅かった。見るも無残な遺体に、長たちは嘆き悲しんだ。里では前からくノ一の処遇について幾つかの懸念があった。だが、くノ一頭の死を契機に囁かれていただけの小さな思いはやがて強い力を得た。――くノ一廃止。里の総意のもと、くノ一が廃されることが決定した。酷い戦の後で、皆が家族や友人を失い、反対する者はなかった。
「風刻の里ではそれ以来女の忍びを輩出しない。復活せよと声を大にして言うことは禁句とされている」
 楸は押し黙った。疾風がたかが昔話を語った程度であるにも関わらず、彼は有無を言わさぬようにしむけているように感じられた。そこには何故朧が教鞭を取れぬかの説明はない。ただ、くノ一は存在しない、故に朧はくノ一ではない。くノ一がないということは女の忍びはないということだ。即ち、朧は忍びではない。そう言われていることは理解が出来た。
「でも、それって昔のことだろ! おーちゃんは忍びになりたがっている。俺はおーちゃんに教わりたい。くノ一をなくせるんだったら、反対に再開だってできるはずだろ!」
「そういうこともあるだろう。だが、今も言ったように復活せよと唱えることは暗黙の内に禁ぜられている。君は朧が同じ目にあっても構わぬかい」
「……」
 それは嫌だった。勿論、己の顔見知りであれば例え目の前の男にだってそんな目にあってほしくはない。しかし、そこで朧のことを持ち出すのは卑怯だ、と楸は言い返せないながらもむっとした表情に思いを仮托した。
「ちょっと待てよ、わしのことは関係ないじゃろ。第一わしは女ではない」
「男でもない」
 名前を持ち出されたことに朧も思うところがあったらしく、非難がましい視線を疾風に送る。二人の間には火花こそ散らぬが、なかなかに確執めいたものを楸も鋭く感じ取った。
「出家すれば男女の性を捨てることになるから、か?」
「いかにも」
「しかしやはり男ではないだろう。大体、君は還俗しているはずだ」
 朧は逡巡した。どの言葉を返すか選んでいるようだったが、最後には堅い表情を解いて、
「ま、いいじゃろ。どのみちわしは忍びではないし、今は心の底からなりたいとも思っておらん。今後もそうなりはすまい」
 と息を吐いた。
 疾風は少し肩透かしを食らったような顔を見せた。彼の表情が目に見えて動いたのはこれが初めてだった。
「にしても、泰光様は妙なところで信心深いんじゃの」
 どうやら言い合いはやめて話題を変えたらしかった。疾風も同じように切り替える。楸だけが未だわだかまりのさ中にうずくまったままだった。
「本当に無駄な時間を食ったよ。泰光様は迷信だとは言っていたが、恐らく心の底では少しばかり真実かもしれないと思っているのだろう」
「金髪碧眼の者は鬼の家系じゃと?」
「ああ。疫病を振り撒き、飢饉を招くそうだ」
「あほらしいな。そりゃいつかは起こるかも知れんが楸が原因で起きるわけではなかろう。全く、なれば鳳凰国なぞ疫病が蔓延しくさって当に滅びておろうに」
「尤もだ」
 二人は呆れたように嘆息した。楸は会話を聞きながらぴたりと怒るのをやめ、
「え、ちょっと、それって俺が疫神ってこと?」
「そうだ」
 二人の声が重なった。思ってもみなかった誤解が己のあずかり知らぬところで起きているようだった。
「上の者たちは穢れを嫌うからの。疾風の口添えがなければ、万一飢饉や疫病が起きた時には真っ先にわしらの仕業とされるぞ」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿ではないわ。古参の方々は貴い者をわしら余所者に近づけたくない気持ちが強いんじゃ。それに楸が近づいた矢先に疾風が病でも得てみろ。穢れの主はお前だと言われるに違いない」
「俺の見た目が母ちゃんと同じなだけで?!」
「お前、鳳凰国の人間の姿はこの国では珍しいんじゃぞ。玄武国は勿論のこと、青龍も白虎も皆金の髪はしておらん」
「そうなの?!」
「そうじゃ」
 思い起こしてみれば、確かに麓の村に下りた時も、行商の男女も、皆己とは違った姿で、同じ姿をした者といえば母親にしか心当たりがない。
「もっとも、私たちの務めから穢れは切り離せない。泰光様もそのことは存じているし、君も念頭に置いた方が良い」
 疾風は続けて、さて、と言って腰を上げる。
「遅くなってはしまったが明日より稽古をする。場所は裏の林で良いだろう。朧、君にも来てもらう」
「相分かった。真剣を使うのであればそっちのを借りれるかの」
 了承した、と言って疾風は背を向けた。
「ちょっと待てよ! 俺はまだお前に――」
 教えを乞うつもりはない、と言いかけて楸は朧に口を塞がれた。そこで戸口に立った疾風が振り返る。
「言い忘れていたが、私は疾風だ。先頃まで下界に居たが、今は長の直属の部下をしている」
 あまり目新しさのない自己紹介だった。
 ただ一つ、新たに得た情報と言えば、先般村人たちがこぞって祭りの如く群れを成して待ちわびていたものの正体がこの男であったということだけだった。
 楸は遂に忍びの稽古を始めることとなった。だが、それは非常に不本意なものであった。




 しばらくの間、楸は囲炉裏端で胡坐をかいたまま悶々と種火を見つめていた。朧は昼まで藤間屋敷に顔を出していたために家事が溜まっていたので、楸を放って様々な家事をこなしていた。今は夕餉の支度に土間で笊を扱っているところだ。
「そうむくれるな楸」
 朧が竈の前に立って釜の蓋を開けた。いつの間に摘んできた山菜が水に晒されてある。
「疾風に教われるならば、お前も努力しだいで相応の力がつけられる。ま、ちょーっと無愛想ではあるが別に悪いやつではない」
「ちょっとどころじゃないだろ……」
「慣れるまではそう見えるだけじゃて」
「それに俺を本当に教えたいわけじゃないだろ」
「んなこたないじゃろ」
「俺を出世の踏み台にするつもりだ」
「お前が踏み台にするんじゃろ。あやつの出世の踏み台にお前がなれるはずもあるまい」
「そ、そりゃそーだけど! おーちゃん今は俺が庇って欲しいのにあいつのことばっかり庇う!」
「別に庇ってなぞおらん。ただ、あやつのことはお前よりは詳しかろう」
 楸は唇をへの字に曲げて釈然としなかった。朧と疾風が昔馴染みで、少なくとも朧が疾風を信頼していることと、男女の別なく好意を抱いていることは明白だったので、余計に姉分を取られた気がして腹の虫がおさまらなかったのだ。
 朧は水に濡れた手を拭って囲炉裏に鍋をかけた。まま、楸を膝に引き寄せて座らせ、柔らかい髪をぽんと撫でる。
「さては慰めてほしかったか?」
 楸は背中越しに彼女がにやにやと笑うのを感じ取って、
「そ、そんなんじゃねーし!」
 と弱く反発した。しかし、背だけは正直に朧に預ける。
「いいか、楸。わしはな、疾風にはただの一度も心の底から勝ったと思うたことはない。卑怯な手を使って勝敗をうやむやにしたことはあるし、実戦もあやつよりは数をこなしているつもりじゃが、それでも勝てたことはない」
 彼女は負けという言葉こそ出さぬが、事実負けたに等しいと考えているのようだった。楸は、彼女ほど負けという言葉が似合わぬ人は居ないと思っていたので意外に思った。それは彼女の性質から感ずるものであり、何かそういった空気を纏っているように思われるのだ。人に負けると思わせない、そういう気概が彼女を形作っている。
「わしの師はもう居らぬが、あやつは今も紫雲様をはじめとし、玉秀斎様や泰光様、それに東雲様から様々な業を吸収し続けとる。お前、あやつの腕が信用できぬのなら、首を取る気持ちでいっそお前が見極めてみろ」
 朧と視線がかち合う。強い黒の瞳が、やはり面白そうに爛々と輝いている。
「首を取るって……」
「なあに、例えじゃ例え。露ほどの望みもないが、万一お前が疾風の首でも取ってしもうたら、わしが天涯の果てまで一緒に逃げてやるよ」
 朧はわははと大笑して楸の頭をまた一撫でする。それにしても楸も感嘆せざるを得ぬ面子に疾風という男は教えを乞うている。長やその側近たちに教えを受けられるほどの実力者と考えねばならない。
「にしても、何だってあいつを皆よってたかってちやほやするんだ」
「うん? そりゃあ長の嫡男ともなれば当然じゃろ。それに、教える方だって筋が良いやつが吸収していく様を見るのは嬉しいもんじゃしの」
「へえ。長の……。ん? えっ? ええ!?」
 楸は先刻までの己の態度に血の気が引いた。道理で里の重役たちが反対するはずだった。
「ああ、知らんかったか? お前と仲良しの綺姫の兄じゃ。なぁに、さっきのことも怒っとらんって。そんな青ざめた顔をするでない」
「お、おーちゃん! そんな重要なこと、一番初めに教えてくれよ!」
「すまんすまん。当たり前のこと過ぎてすーっかり忘れとったわ」
 朧は笑ってごまかすが、楸にしてみれば笑うだけでは済まされない話だった。あの能面のようであり、真水のような、静かな面(おもて)の裏で、疾風が何を思ったのか。想像するだけで胃が痛くなりそうだった。それでも、
(長たちから学んだことをもし教えてもらえたら……)
 強くなれるだろうか、と夢想して楸はぶんとかぶりを振った。
「でも俺がおーちゃんに教えてもらいたいって思ってるには変わりないんだからな!」
 楸は朧の膝からおりて、そのままの勢いで棚から椀を下ろした。危うく彼女の言に流されるところだったと頬を膨らます。彼女はその様子に一笑して、ふと神妙な顔つきになる。
「そうだお前、あの昔話、外であまり言いふらすなよ」
「分かったよ!」
「絶対じゃぞ」
「う、ん!」
 あの男の話など外で出すものか。朧の不思議と神妙な態度を気にもくれず、楸の腹の音を代弁するかのように、囲炉裏の鍋が湯気を上げながらぐつぐつと音をたてていた。




 濃緑の草に木漏れ日が黄色い斑点をぽつぽつと落とす。二三条の雲がおおらかに青空を流れていた。白い手ぬぐいで汗を拭いながら疾風は楠の大木の幹に背を預ける。
「最初なのに少しばかりやりすぎたかな」
「いいや、最初が肝心という」
 疾風の隣で胡坐をかきながら、朧は膝の上に頭を乗せた楸の髪を指で梳いた。口を半開きにしながら泥だらけの四肢を大きく投げ出して寝息をかいている。腕や膝には赤く痣が浮かんでいたが、全て彼自身で作ったものだ。今日の数刻で楸はもはや疾風の力量を認めざるを得なかった。朧と疾風を比べるまでもなく、疾風の立ち振る舞いは業のいかんを知らぬ者でさえ、説明の出来ぬ一条の強い輝きを持っていると思わせるのだ。  
「しかし参ったよ。ありったけの力で抵抗してきたな」
 普段では決して聞けぬであろう疾風の言葉に、朧はにやりとする。
「ははっ、若様の口から参ったと出るとは、楸もしてやったな」
「茶化さないでくれ」
「ふふん、茶化してなど居らんぞ」
「私だって参ることもある」
「そりゃ意外じゃの。いつ何とき何奴に」
「本当に似ている」
 疾風は朧の問いには答えずに、白手ぬぐいで口元を覆って呟いた。
「お主はわしと楸がそっくりだと言いたいのじゃろう」
 むっとした朧に疾風は視線を外したまま答えない。答えぬのは認めたも同然だった。それに、朧には心当たりがある。幼い頃――まだこの里に連れてこられたばかりの時分、子どもの癖に妙に能面づらした少年が気に入らなかったのだ。けんかを吹っかけてはのらりくらりと柳のようにかわす姿に腹を立てたものだった。
「ま、今日お前が痛めつけたんじゃから、明日からはもう少し従順になるじゃろ」
「痛めつけたのは君だろう」
 疾風は朧を一瞥した後に楸を見つめた。楸は起きそうにもなかったが、日昏は段々と時間を延ばしつつあるので、もう暫くこのままでも構わなかった。疾風は暫時逡巡して、
「なら、君よりかはずっと素直かもしれぬな」
 彼の無表情な眼差しがほんの少しだけ和らいだ。
 かくして、楸は見習い者として名実ともに風刻の忍びとしての道を歩み始める。








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