第二章 二人の師(1)

 ヒサギが風刻の里での生活を許可されたのは今から一年前、その際、朧により「ヒサギ」から「楸」と改められた。
 「楸」はきささげの木の異称で、古来より庭に植えられたその樹陰は誰からも愛され、多くの詩にも詠まれている。薬用としても効用があり、尚且つ落雷の魔除けといわれる木だ。一説では霊気を持つ「梓」の別名ともいう。本来の文字は分からぬから、朧が知っている文字の中で彼に相応しい文字を贈ったのだった。風刻の里に居て、雷避けとはなるほど洒落のようだった。

 それは楸が里の生活にすっかり慣れ、幾らかの親しい友も出来た九つの年の初めだった。下界から里長の縁者を迎える。そんな噂が駆け巡り、狭い里の全員が色めき立っていた。
 己と一番親交の深い綺姫も、縁者を迎え入れる準備に小さな体と柔らく艶やかな髪を忙しなく動かしながら、我が儘を胸の内にすっかりしまい込んで不満一つ零さず、むしろ上機嫌だったし、無論、朧もその例から漏れてはいなかった。彼女も特に親しい友人の虎彦と瑞江とともにそわそわしながら当の話に花を咲かることが多かった。
 楸は皆がそんなにも待ち遠しく思う人間とは一体誰だろうと考えた。どこか遠い国の姫君の輿入れでもあるのだろうか。しかし、こんな山里に姫君が嫁いでくるわけがない。大体誰に輿入れするというのか。里長だろうか。
 まさか、と楸は小さく笑った。
 長には既に己と歳の近い娘が居るではないか。勿論、奥方様を亡くされて久しい長が、後妻を娶る可能性は無ではない。しかし、どうしても楸には長が新たな妻を娶るようには思えなかった。根拠はなく単なる勘だ。彼は更に思案した。それとも、遠くにある京(みやこ)のスメラミコトがお忍びで行幸なさるのだろうか。否、それにしては別段里を整備する様子もない。朧が、下界――風刻の里から見て山ノ下に位置する一般の民の町村をこの忍びの里の者はそう呼んだ――でスメラミコトが行幸なさる際には行宮を普請したり、歓待の準備をしたり、色々と大変らしいと言ってはいなかっただろうか。第一、この里の何に用事があるというのか。
 そんな夢想を重ねた初夏のある日。その日はまだ春の残り香が漂うような、行楽に最適の薄ら晴だった。朧が息を弾ませて野良仕事から帰ってきた。いつもよりも数刻早い戻りだったので、楸は驚いてどうしたのかと尋ねる。
「楸、出かけるぞ!」
 彼女はそれだけ言うと、農具を脇に置くや否や、籠もおろさなければ着替えもせずに楸の手を強引に引いて家から出た。すると、なんと里中の人間が大挙して里の入り口に寄り集まっているではないか。近所――とは言っても、朧の家は里の外れにあるため、隣り合ってはいないのだが――の顔ぶれも居れば、いつもはなかなか見かけぬ者たちも居た。綺姫はすまし顔で長や家来たちと集団の最前列で顔を紅潮させている。やはり皆々がそわそわとしており、中には一張羅を纏う者や白粉を塗って化粧した者もある。山あいの慎ましやかな田畑しかない村落には何とも不釣合いな光景だ。ただ、集まった者は皆一様に明るい笑顔を湛えていた。
「おーちゃん、お祭りでもあるの?」
 朧は里で一番の祭り嫌いで有名な友人の更也に手を振って、いいや、と首を振った。彼は祭りごとの度に女に強引に懸想されるので、どんな祭りごとであっても、家の面に泥を塗らない限りは滅多に参加しない性質だった。そんな祭りごとの嫌いな彼まで出てくるとは、どうやらただ事ではなさそうだと楸は思った。
「わしらはあそこには入れんのじゃが、もっと眺めの良い場所に行くぞ」
 彼女は人だかりを一瞥しただけで、逆方向へ歩みを進めた。聞けば、人だかりに入るには相応の地位や許可が必要で、自分たちのように親兄弟もおらず、代々の忍びでもない村人が踏み込める場所ではないらしい。せめて里の一員、或いは忍びの衆の一員として、里に公に紹介されねばならぬのだと言う。
 彼らは勇んで山を登る。山道を少しばかり登ったところに、木々の茂みの生えておらぬぽっかりとした空間があった。ほんの三間程度の土地だったが、先は崖となっていて視界が開けている。朧は小さな岩の足元に山菜の入った籠を置くと、楸を手招いた。山道を歩くついでに山菜を摘み忘れぬ意気はさすがだったが、ために彼はへとへとになりながら姉分の側に寄った。
「見ろ、楸。よーく見えるじゃろ?」
 彼女の指先には脈々と緑の稜線が続いていた。春を終え、木々の緑が若々しい枝葉を広げ、群となって眼下に広がっている。その峰に、まるで蟻が這うかの如く、長い長い行列が里へ登ってくる。
 緑の隙間を縫ってちらと見える輿や馬具の朱色の装飾が美しかった。皆この行列の中の誰かを心待ちにしている。楸にはそれだけしか分からなかった。
 朧が、この山道を馬で登るのは馬にとって過酷じゃろうな、と呟いた。その憐憫の言葉とは対照的に、彼女の表情がほろ苦くも、初夏の晴れ上がった空のように澄み切って明るいのを感じた。楸には、結局のところ、人々が揃って誰を何のために迎えたのかは分からなかった。だが、朧が里の皆と揃いの感情を必死で噛み殺しているように見えてならなかった。



 *
 それから十日程過ぎた日の暮れに、楸は朧とともに長の住まう屋敷――通称藤間屋敷へ足を運んだ。楸に忍びの修行許可が下りたので、長に礼を兼ねた挨拶をし、そのまま師を選定する予定だった。楸の胸中では、誰を師に選ぶかは当に決まっていた。一年前に命を救われて以後、己が師と仰ぎたい人間は朧しか居らぬ。そう考えていた。
 暮れといっても名ばかりで、夏に近づくにつき日は未だ真っ昼間のように辺りを眩く照らし、傾くまでには少なくとも半刻を要すると思われた。
 里の中央を突き抜ける白い砂利道を避けながら、形の美しい山を目指して進むと、その麓に長の屋敷がある。
 白砂利の道は山の神の神路だと朧は言う。彼女は意外に信心深い。子どもたちは里を駆け回る時、足元に気を配らずにすぐにこの白砂利を蹴散らかしてしまう。しかし、年長者とともに居る時だけ、まるでいつもそうであるかのように白砂利に触れぬよう脇を歩くのだったが、楸もその例に漏れていなかった。
 藤間屋敷とその周辺の何棟かは、里の茅葺屋根の家とは造りが異なり、全て黒瓦を葺いていた。そのためか、どこかずっしりとして人を容易に寄せ付けぬ重々しい空気を漂わせている。彼らは幾つかある立派な門のうち、脇のやや小さめの門を潜り、飛び石を渡り、その先の玄関まで来た。朧が、参りました、とよく通る声大きく張り上げた。
 すると、中から八字髭を蓄えた中年の男が出てきて、朧に冷えるような眼差しを送った後、入られい、と声をかけた。楸にすら分かるあからさまな侮蔑だった。一方の彼女は笑みすら浮かべて礼を述べている。二人は靴を脱ぎ、屋敷に上がると怫然とした表情の中年の男の後を着いた。中年の男はどかどかと歩いているように見えたが、足音が全くしないのが楸にとってみれば非常に不思議だった。
 八字髭の男は、広い屋敷をさっさと歩いていく。決して二人を待とうとはせず、ともすれば見失えば自身の過失だと言われ兼ねぬ。何度も角を曲がり、沢山の小部屋を過ぎた。途中に幾つかの苔の美しい坪庭が目に入ったが、屋敷のあまりに複雑な造りに、楸は一人で家に帰るのはもはや不可能だと感じた。
 三つ目の庭を過ぎて少し進んだ部屋の前で男が止まった。彼が襖を開けるとそこは板張りの広間になっていた。広間には数人が端座していた。左右に整然と対座した男たちは襖が開くなり、じっと楸を見つめて怪訝な顔をした。珍奇な生物を目の当たりにした時のようで、互いに愉快な表情ではなかった。楸は家で朧から予め聞いたように平然振る舞ったが、これだけの大人の視線を一遍に浴びながら緊張するなというのも難しい。楸は心中怖々していたので、朧の背にしがみ付いて隠れてしまいたいところだった。
「泰光、ご苦労だった」
 中央の墨書の掛け軸に背を向けて胡坐をかく壮年の男が案内役の男を労った。泰光ほどではないが口元に銀煤竹の整った髭を蓄えている。楸はそ穏やかな瞳と厳しそうに敷かれた眉に、さっき往路で見た黒瓦の屋根の重々しい雰囲気を思い出した。
 泰光は男に恭謹に返事をした後、ふん! と朧を睨み付けて右手の上座にどかっと座った。やけに身なりの良い下男だと思っていたら地位の相当高い人物のようだ。
「楸、その方は息災か」
「は、はい!」
「これで二度目よの」
 男の言う通り、確か二度目の対面だった。朧の横に座った楸は中央の男の目を真っ直ぐ見つめた。最初にお目通りが叶ったのは里に来て数日の後だった。
 彼はこの里の長で名を紫雲と言った。紫雲とは勿論のこと吉兆の印である来迎の雲に由来する出家名であり、且つ綽名として使っている名だった。里の者はこのようにして仏道を信仰する者が多くあった。
「今日はその方の師を決めるのであったな。誰ぞ自ら薦む者は居らぬか」
 紫雲が膝の上で拳を打ったが、他の者たちは石のように口を噤んで一言も発することはなかった。彼は側近たちを聡明そうな切れ長の目で眺めた。彼の慧眼で射られて沈着に装える者は殆ど居らなかったが、思えばこれは紫雲と側近たちの根競べであった。
「殿、申し上げまする」
 先ほどの泰光が渋い顔をした。
「うむ」
「某や玉秀斎殿には役方の職務もありますゆえ……、その、十分に稽古をつけてやる暇がございませぬ」
「承知しておる。無理にとは言わぬ」
 紫雲の答えに安堵した泰光は息を吐いて胸を撫で下ろす。己は免れたとみて、先の固く畏まった姿勢からゆったりとした身構えに変貌した。数名が所懐ありげに彼を一瞥するが、紫雲の声にすぐさま膝を正す。
「他に居らぬか。居らぬのならば――」
「あのっ」
「なんじゃあ己は! 殿の御前で勝手な口を利くでないわ!」
 紫雲の言葉を遮った楸に向かって、突然、泰光が腰の扇を抜いて吠える。何故怒鳴られたのか分からぬ楸は烈火の如く怒る泰光にぎょっとしたが、朧に頭を力づくで押さえつけられて戸惑いを喉元に呑みこんだ。
「ご無礼大変申し訳ございません。こやつはまだ里の事情に疎くありまして……」
「良い。泰光、ちぃとしたことだ、落ち着かぬか。その鉄扇で叩かれては子どもの頭が割れてしまうぞ。して楸、其方の言いたいことを述べてみよ」
 紫雲が泰光をたしなめると、彼はばつが悪そうに膝の横に扇を置いた。表情を見れば主の命であるから不承不承応諾したことが誰の目から見ても歴然としていた。頭を朧の戒めから解かれた楸は、この一年、否、この里に来ることが決まってからずっと秘めていた思いの丈を紫雲にぶつける。即ち、己の師は朧としたいということである。ここまできて、楸は誰もが己の師になりたがらないことを覚っていた。故に己の養育を自ら申し出た朧であれば断らぬだろうし、何よりも助けられたその日から彼女の技量に密かな憧れを抱いていた。きっと紫雲は快く許可を下すだろう、と楸は安易に考えていた。
 だが、楸の思惑とは違い、紫雲の慈眼が僅かに曇る。
「それはならん」
「な、何故ですか」
 遣戸のせいか斜陽のせいかは分からなかったが、徐々に暗闇に侵食されゆく広間で、紫雲の瞳に宿った意思の光は消しようのない輝きをしていた。楸は困惑した。
「確かにここに居る忍びの人たちもとても素晴らしいんでしょうが、俺はこの人を師匠にしたいんです! 俺はこの人がどんなにすごいか、前にこの目で見ました」
 いよいよ顔面が蒼白になった朧が楸の口を塞いだ。紫雲の前で不作法に振る舞うことは躊躇われたが、それ以上に楸のお喋りをどうにかしなければならなかった。周囲の者たちもこぞって睨みを利かせ、実力行使も問わぬ雰囲気を醸している。そんな中でも紫雲は調子を崩さずに静かに楸に語りかけた。
「実力があれどその者は忍びではない。忍びの修業は忍びに学ぶものだ。其方が朧を師とするのであればそれは忍びになるためではない」
「らったら何れ……!」
「楸!」
 楸は口を塞がれても意思を曲げようとはしなかった。
「それほど朧が良いのであれば忍びを諦めるか、仲良く里を出てもろうても良いのだぞ」
「泰光」
 泰光は腰を浮かせて脇に置いた扇を再び手に取ったが、紫雲の視線を感じて踏みとどまる。
「自ら進んでこの子を弟子に取ろうとする者が居らぬのであれば、楸、其方がこの八人より選ぶが良い」
 これ以上楸が朧が良いと言っても、紫雲が頑として譲らぬのは目に見えていた。楸にも目の前の忍びたちがどれほどの実力者かは分かっているつもりだった。歩き方や座り方、そこに存在している空気一つとっても、外で出会った村人とは一線を隔している。彼は無言の抵抗として、両膝の上に置いた拳に力を籠めるしかなかった。
「楸、里に置いて頂く恩も返さぬうちから我が儘を言うではない。ここにいらっしゃるのは皆八人衆の上忍の方々ぞ。八人衆を師に持つなど滅多には出来ぬ光栄。長のお心遣いを無下にするでない!」
 朧もこの八人から決めて欲しいという感じだった。但し、彼女の場合は八人衆が素晴らしいから是非とも彼らの中から師を選定したいというよりも、紫雲の心遣いをどうしても無駄にしたくないようだった。だからこそ、楸が何度朧の業に感動しただの、師にしたいだのと言っても乗り気ではないのだろう。
 楸は押し黙った。八人衆の一人が蝋燭に火を点した以外、広間の誰もが息を止めたように静かだった。
 楸は視線だけを動かして八人衆の面々をぐるりと一望した。誰も彼もが楸に視線を送っている。彼らは皆楸が誰を師に選ぶのか興味はあったが、それぞれが己は選択の枠の外にあるかの如く、まるで他人事だった。楸には、彼らの好奇心を除いた眼差しの底に、選べるのならば選んでみるが良いといった一種挑戦めいたにおいを嗅ぎ取った。楸も八人衆も、お互いに一歩も引かず、事態は閉塞していた。
「埒があかぬな」
 紫雲が嘆息した。
「そのようですね、長。では私めにそのお役目、お預け下さらないでしょうか」
 楸は雷撃に打たれたかのように声の主を見た。朧とあまり年の変わらぬ若い男――大人びた空気を纏っているが、未だに青年には達していない――が紫雲の脇にいつの間にか端座していた。斯様な人物が初めから居ただろうかと楸は化かされた気分で男をまじまじと見る。蝋燭の火のせいか、男の静かで鋭い鳶色の瞳は楸に夜の狩人を髣髴とさせた。
「上忍の方々は役方でお忙しいのもご尤もでございます。暫くは私めが彼に稽古をつけ、能力を見極めた後、新たに適任の師を選んではいかがでしょう」
「うむ」
「私も中忍と言えど、他の者のように経験豊富とは言い難くございます。故に、ここは私めの修行の一環としてもどうぞ彼をお預け下さい」
 初めは困惑の色を隠せず、何かを言いたげだった八人衆の面々も、男が適当なことを言っているのではないと察知すると、誰も口を挟もうとしなかった。それどころか、八人衆にとっては面倒事を第三者に押し付けることが出来る、思ってもみなかった申し出のはずだ。
「私の手で足りぬ時は、そこの朧にも手を借りることになりましょうが、そちらも併せてお許し下さりますよう」
「うむむ……」
 男の言葉を聞いて泰光が唸る。腑に落ちぬ風だった。
「泰光、言いたいことがあるのなら申せ」
「いいえ、長がご納得の上であれば某からはございませぬ」
 まるでそうは見えなかったが、泰光は押し黙った。紫雲は膝を拳で一打すると、
「ならば決まりじゃ。この役目今暫くは疾風、そなたに預けよう」
 と決した。疾風と呼ばれた男が両手をついて深々と礼をすると、この場はお開きとなった。

 師の選定が無事に済んで、朧はほっとした様子だった。加えて、どこか満足げだった。楸の当面の師は疾風という男に決まった。里で一年ばかり暮らした楸は、もう殆どの村人を知っていると思い込んでいたが、この男にはとんと心当たりがなかった。
 朧や虎彦らと同じような年の頃合だったが、彼らとは全く違う空気を持っているように感じられた。それは歩いたり手を挙げる所作一つとっても感じられたし、切れ長の目に宿る不思議な光にも感じられた。朧にはその光は品性というやつじゃ、と教えられたが、楸にはそれが一体どういうものか分からなかった。彼女の言によるとそれを身につけられる者とそうでない者が居るという。
「わしにはどだい無理じゃが、お前は今から頑張れば、もしかするとつけられるかも知れぬぞ。とは言っても、わしと生活を続けていけば無理な話じゃがの」
 そう言って大笑するのだ。だが、楸は果たしてその品性とやらからはこんなにも恐怖や反発を感じるものであろうか。もっと違う何かではないだろうか、と考えた。あの冷え冷えとした山の早朝の空気のような疾風の瞳に、楸は些か懐疑的だった。
「にしても、お前といるとほんに肝を冷やされるわ。もし長がお怒りになれば修行の話どころか、里に住むことすらも水の泡と帰したところじゃぞ、この莫迦者!」
「いてっ」
 朧は拳を作って脳天に軽く叩き入れる。
「殴ることないじゃんかよ! おーちゃん」
 楸は囲炉裏に吊るされた鍋から白湯を茶碗に注ぐと朧に手渡す。
「一発殴られただけで済んだことを幸いに思え! あれ程口を酸っぱくして行儀良くしろと言ったのにお前と来たら」
「だって!」
 楸は唇を尖らせながら、自分の茶碗にも同様に白湯を入れると脇に置いて両拳に力を籠めたが、
「だってではないわ!」
 と朧が威勢良く空になった茶碗を置いたのを見て楸は怯んだ。確かに言いつけの半分程度しか守れなかった自覚はあるし、家に帰ってみるとあの屋敷にいた人々がどれほど天上に近い人物か遅ればせながら理解してきたことはある。口ごたえの無礼を働いて、その場で手打ちにされなかっただけましだろう。代わりに保護者である朧に叱られる覚悟も一応はある。それでも、やはり楸は腑に落ちない。
「だって、おーちゃんがお師匠で何が悪いんだよ!」
 この一点に尽きた。
「あの疾風って兄ちゃんがお師匠で良いんだったら、おーちゃんだって同じくらいの歳なんだからいいじゃん。あいつがどんな忍びか知んないけど、おーちゃんだって実力あるでしょ。俺、確かにこの目で見たんだから!」
 朧は丹田から息を深く吐き出すと、楸の澄んだ泉のように青い瞳に、貫くような視線を送った。またか、と言わんばかりだった。
「あのな、楸。前も言ったようにこの里では女は忍びにはなれぬ。女を忍びにせずに保護する。これは里の総意で決定した掟じゃ。立派な良き伝統じゃろ」
 やけに白々しい言葉に、楸は口をへの字に曲げた。何度聞いても腑に落ちぬしきたりだった。楸のような子どもから見ても、朧が他の村人と比べてうんと抜きん出た実力の持ち主であることは明らかだった。楸は彼女を忍びと呼ばぬのであれば、より能力の低い男たちに忍びだとは名乗って欲しくなかった。彼女は、里は人が少ないから簡単な仕事を与えてもらい住まわせてもらっている恩返しをしているのだ、己は忍びではなく単なる真似事を黙認されているに過ぎぬ、と説明するが、楸にとってみれば今日会った八人衆の皆々が、朧を体の良い小間使いにしているようにしか思えなかった。
「嘘つき! 俺はおーちゃんが忍びになりたいって知ってるんだからな!」
 楸は腹立たしかった。お前もその内分かるじゃろう、と朧はやはり白々しく、必要以上に感情を削ぎ落として言った。その内とは一体いつか、大人になってからだろうか。分からぬが、仮に大人というものが不当な差別に反発をせず、黙することであれば、己は永遠に子どものままで良いと思った。








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