第三章 往昔の夢(1)

 このところ数年の静かな生活が破られつつあった。取り上げるべき事件として二件。即ち、ひとつは雷神の宮が活発に藤間郷の領域へ侵犯してくること。いまひとつは下界から姫君がやって来ることである。
 前者はまだ大した騒ぎとなって居らず、村の外れにある風刻谷で雷神の宮の忍びが何度か目撃された程度だった。外から偵察するに過ぎず、必要以上に入境したり、攻め入る様子は見受けられぬ。従って、むやみにけん制して火花が散るのを避け、暫く意図を探る方向となっている。特に策を講じるでもない。村人には注意を促すだけで様子見の状態が続いていた。
 毎日の評定ではどこそこでそれらしき影を見つけたなどと報告があっては、古参の忍びたちが、けしからん、その内に成敗してくれよう、と怒号を発したり、里の者が風刻谷の奥にある共同墓場や風神社への参拝がしづらいと不満の声を上げるに留まっていた。
 だが、後者については入念に予定の確認が行われ、側近たちは手下の者にぬかりないようにと厳しく言い聞かせていた。
 それもそのはずで、蓮見の町に住む有力な武家の姫君は長・紫雲の嫡男である疾風に嫁ぐ予定となっていたのだ。この取り決めは正式なものではないとはいえ、両家は暗黙に合意していると考えて些かの誤りもない。時さえ来れば婚姻に至れるものだった。
 外から里と全く縁故のない貴人を招くのは村人には少し骨だった。山あいの村に新しく豪華絢爛な逗留所を作るには色々と問題があり、結局、藤間屋敷の長たちの寝所とは別の、現在では使われておらぬ棟にお通しすることと相成った。そこは「桜の間」と言って、長の奥方・桜雲(おういん)が生前私的に使っていた家屋である。普段は誰も居らず、倉庫がわりとなっていたので急ぎ清掃される運びとなった。清掃は里の女衆が取り仕切っているが、普段容易に踏み入ることの出来ぬ長の奥方の部屋ということもあって、女たちは表面上は非常に敬虔そうに演じていたが、胸の半分以上は貴人の住居を覗き見出来る滅多にない機会に沸き上がり、高揚感に満ち満ちていた。
「美月ちゃん、あなたも桜の間を整えるのでしょう?」
 藤間屋敷の軒先で長い髪の先だけを結った女性に声をかけられ、朧はその場を振り返った。
「春ちゃん、ここでその呼び名はよしとくれ」
「あら、ごめんなさい。朧ちゃん」
 三十路半ばにはとんと見えぬ小柄な女性・春は、憮然とした朧を見るなりしょんぼりとしながら頭を垂れる。
「も、もうよいって……。別に怒ったわけではない」
 朧は未だに己を子ども扱いして真の名で呼ぶこの女性にとても弱い。
 早良 春(さわら はる)は朧の育ての親であった十六夜の幼馴染だ。優しく器量良しだが、人より少し体が弱い。日常を送るのに支障はないが、ために、嫁に行っても子は成していない。春は幼い頃よりずっと朧を歳の離れた妹というよりも子のように接して来た。そんな春に暗い顔をさせるのは心が痛む。故に、朧は影を払拭しようと元の話題に戻す。
「生憎じゃがわしは女手に数えられなかったようでな。見廻組じゃ」
 朧の返答を聞くなり、春は柔らかい榛(はしばみ)色の瞳に凛とした強い光を浮かべる。
「見廻りだなんて危ないわ! 顔や体に傷でもついたらどうするつもり?」
 朧はまたか、と胸の内で呟いて溜息を吐く。
「どうもせん。まったく、どこかの誰かと同じことを言う」
 実は先刻も同じように見廻組であることを窘められたばかりだった。
 自ら手を上げて志願したわけではないのに、どうしてか最近他の男と同じように忍びの真似事をすることに反対される。それも上忍たちが反対するのではない。極親しい仲の者ばかりが反対するのだ。里の、特に若い人手を軸に考慮すれば、上忍たちが朧を見廻組に組み込むのは当然の成り行きと言えるのにである。
「あっ、さては疾風くんね、うふふ」
「ご明察」
 春はにこにことするが朧は面白くない。春と疾風には己が他の忍びたちと肩を並べられることを一番に喜んでもらいたいのだ。
「きっとあなたが心配なのよ」
「心配されるほどわしは弱くはないんじゃがの」
 朧と疾風の仲が良いのは周知の事実だったが、春の言葉はそれ以上の意味を含んでいた。しかし、女たちの好みそうな関係かと聞かれれば、それはまるで見当違いだった。二人の仲は子ども時代のけんか仲間がそのまま成長したようなもので、艶っぽい男女の仲には遠くかけ離れている。それでも周囲から見れば男と女には変わりないので、万が一間違いがあってはたまらないと玉秀斎や泰光たちが躍起になって疾風を守ろうとしている。
「うちの人が言わない分、疾風くんにはもっと強く言ってもらわないといけないわ」
「どれだけ言われようがわしの意志はそう簡単に曲がらんよ」
「あなたってば、どうしてそういうところは十六夜に似ずに道順に似てしまったのかしら」
「二人の子育ての甲斐あってじゃ」
 春は頬に手を当てて呆れた表情を見せた。
 近頃では上忍たちは朧の腕前と成果を認めざるを得なくなってきている。例え真似事と言えど、彼女は一定の力量を持っている。加えてどんなに無茶でくだらぬ務めでも是の一言でこなす非常に扱いやすい人物だ。
「それで……、春ちゃん、道順(どうじゅん)様は息災であられるか」
 躊躇いがちに朧が尋ねる。
「ええ。相変わらず風邪のひとつも引かないわ。でもあなた、殆ど毎日評定で会っているでしょう?」
「んん、顔は突き合わせるがそれだけじゃからのう。それに評定は忍びのものじゃから、わしは中には入れてもらえんし……。あ、決して道順の耳に入れるなよ!」
「気になるなら話しかけてあげてちょうだい。あの人も朧ちゃんに話しかけられるのを待っているのよ? あなたの自立は尊重するけれども、私たちはずっとあなたを娘だと思っているわ」
「お、おう……。心遣いだけいただいておこう」
 春の率直な言葉に朧は柄にもなく照れる。
「そうだわ!」
 突然、春は風呂敷包みから柳行李を取り出す。ずいと歯切れの悪そうな朧に手渡し、
「道順に届けてあげてくれないかしら?」
「え、ちょっと……」
「ちょっと立ち話をしすぎたわ。私は桜の間に行かなくちゃならないから、どうかお願い。でないと道順、くいっぱぐれてしまうわ」
「わしも後で早速見廻りに行かねばならぬのじゃが」
 苦い表情を浮かべる朧に春は、
「あら、朧ちゃんは八人衆の一人を私的な感情でないがしろにするつもり?」
 と、やはりにこにこした顔で言った。そう言う春も私的な感情から己を使っているではないか、とは朧は言わない。目上への礼を重んじる彼女に、春の言葉は強くきいたようで、しぶしぶと是の返事を返すのだった。
 むず痒い思いを身の内に飼いながら、朧は藤間屋敷を出ると、神奈備を背にしながら白砂利の神路を下っていった。




 方向ナシの森は里の西外れにある。霧の多く出る場所で、日中も薄暗いため、里の大人たちは口を揃えて子どもだけでは行かぬように厳しく言い聞かしていた。地名の通り、方角がまるで分からなくなる不思議な磁場でもある。そういった場所には決まって幾つかの昔話――例えば霧の出ている時は森を根城にしている幽霊が人前に姿を現して害することがあるという話しに始まり、昔口減らしに使っていた森のため昼夜となしに赤子の泣き声がする話、戦で敗れた忍びが里に帰ろうとさ迷っている話など、主に怪談話である――があり、子どもにとっては格好の肝試しの場となる。
 楸は怪談が嫌いだ。男子(おのこ)の面目を捨て、恥ずかしげもなく口に出して皆に公言してしまうほどに恐ろしい。しかし、彼は六地蔵を過ぎ、更に追善供養に建てられた無数の石塔を脇に通り過ぎて、方向ナシの森の入り口にはられたカンジョウ縄の結界をくぐって森の中にいる。携帯している方位磁石はくるくると回り針先が定まることがなかったので、早々に腰巾着にしまってしまった。霊感など一切持ち合わせては居らぬが、里と正反対のうら寂しい雰囲気と肌の表面を撫でる冷たい空気は彼に容易に幽霊を想像させた。彼は心の中で唯一つ覚えている真言オン・アビラウンケン・ソワカを唱えたり、九字をきるのに余念がなかったので、隣の綺姫の声がろくに耳に入ってこなかった。
「ねえ楸ってば聞いてる?」
 一つ年下の綺姫(あやひめ)は赤いりぼんと豊な髪を揺らしながら楸の正面に立つ。癖のある髪が彼女の表情と同じようにくるくると踊っている。楸は彼女にたんぽ槍を向けられて漸く話しかけられていることに気付いた。
「えっ、ああ、うん」
「聞いてないでしょ!!」
「えーっと、幽霊がなんだって? 物の怪が襲ってくる?」
「そんなこと話してないわよ」
 楸としては立ち止まるのも恐ろしいのでさっさと歩いて気を紛らわしたかった。だが、先導者である綺姫が立ち止まってしまっているのではどうしようもない。綺姫は両手を腰に当てながら、心ここにあらずの楸を値踏みするような眼つきでねめつける。
「さては楸、あなた怖いんでしょ」
 尤もだった。年下の女子に己の肝が小さいことを認めるのはちょっぴり癪だったが、幽霊に出会うより、矜持を捨てる方がずっとましだった。不穏な事件に出くわす前に早いところこの恐ろしい森から脱出したい。しかし、綺姫が疑ったのは別のことだった。
「朧に叱られるのが」
「そんなことない!」
 楸は頬を膨らました。彼女が、暗に己が親兄弟に叱られる恐怖に勝てぬほど胆力に劣り、年下の女子よりも勇気がないと侮辱しているよう思えた。
 綺姫は楸が上手く挑発に乗ったと見て、追い打ちをかけるようにわざとせせら笑う。
「あら、本当かしら? だって目に見えない幽霊ですら怖がってる楸が、朧を怖がらない理由なんてあるのかしら」
「綺姫! 馬鹿にするなよ! 俺はどっちも怖くなんてねえからとっとと行こうぜ」
 まんまと煽り立てられた楸は綺姫の小さな手を強引に引く。綺姫に啖呵をきっている最中に、我に返って安い挑発に乗ってしまったと後悔したが、今更やはり恐ろしいとも言えぬ。せめて手でも繋いで温もりを握りしめれば心強くなるかもしれぬ。だが、果たしてこの手の正体が何であるのか、楸の胸の内には物の怪への恐怖が相変わらず渦巻いている。
「あら。楸ってばとっても積極的なのね。うふふ、いつもこうしてくれたらいいのに」
 両手で楸の手を握って、綺姫は頬を紅潮させて微笑む。
 綺姫は楸好きだ。どうして好きなのかと問われれば理由はない。彼のどれもが講釈なしに彼女には好ましく、他人にとっては敢えて取り立てるまでもない性質を含め、全てが魅力的に感じる。
 皆――殊に綺姫を取り巻く家柄の良い大人――が口々に疫病を運ぶ厄神の類の如しと噂する外見も、彼女には真夏の太陽の光のようにきらきらと眩かったし、決してまめとは言えぬ性質だが、文句を呟きながらあれこれとこなすさまはとても頼りがいがあった。何だかんだ言いながら面倒見が宜しいので、ちょっとした言葉遣いの悪さも彼女には照れ隠しのようで可愛らしく感じられた。
 綺姫はこのようにして楸の性格を――少女にありがちなことだが――半ば夢見ごこちに解釈していた。
 しかし、反対に楸の姉分である朧に対しては強く厭うていた。彼女に於いては何もかもが気に入らぬ。だから楸の口から朧の話しが出ようものなら、苛立ちの種を腹の中につっぷりと蒔くのだった。
「で、どこに行くんだよ」
「そうね、このまままっすぐ進んでみましょ」
 綺姫は往路から続く一本道を指す。辺りは靄がかっており、加えて手入れされて居らぬ茂みだらけだ。下手に分岐路を選んで歩くと凶と出かねぬ。幅が広く、比較的踏み均されても居るこの道が一見して最も安全そうだった。
「分かった。だけどこの先に一体何があるんだよ」
 そういえば、目的地を聞いていなかった。楸は、家で暇を持て余していた最中に、綺姫に誘われるがまま後に引っ付いて来ただけだった。
「お社よ」
「社……?」
 綺姫の回答に、楸はぞくっとして手から力が抜けた。
「社って、こんっなに不気味な森に来て、まだ恐ろしい社になんか行くのかよ!」
 彼の頭の中には木目の割れた薄汚い社が、もはや実在しているかのように現実味を帯びて描かれていた。濃い紫がかった霧の中で、蜘蛛の巣が張り巡らされ、風もないのに堂宇がきいきいと音を立てる。障子がどういった理由で破れてたのかなど考えたくもない。幽霊が住み着いているに決まっている。楸にはまるで直視できぬ姿だった。
「やあね楸、お社は恐ろしくなんかないわ。……まあ、私も見たことないんだけど」
「じゃあ恐ろしくないなんて分かんねーじゃん!」
「恐ろしくないわ! だって、そのお社を晴れの日に見つけられたら里に良い祖霊が帰ってきて皆を守ってくれるって言い伝えがあるんだもの」
「良い祖霊……?」
 守り神のような存在だろうか。彼は脳裏に仙人めいた老爺を描き、疑問符を浮かべる。
「なら失敗したら?」
「えっとね……、五年以内に悪い祖霊に呪い殺されるんですって」
「めちゃくちゃ怖いじゃねーかよ!」
 楸の顔から血の気が引いたのを察知して、慌てて綺姫が付け足す。
「だ、大丈夫よ! 呪いの解き方だってあるもの!」
「どうやって!」
「風神様にお参りに行くのよ。朝昼夕三回、しきみを持って神奈備の湧き水を汲んで、フウジン様フウジン様ドウゾ悪シキヲ祓イ清浄ナル魂ヲココニオ呼ビクダサイって呪文を唱えながら風神様のお社まで行くの。それを三年続けるんですって」
「三年も」
「途中でやめたりしたら、今度は風神様に祟られるってお話だけど」
「たちが悪いじゃん!」
「ともかく、ここまで進んじゃったらもう後戻りは出来ないのよ楸! ほら!」
 今にも泣き出しそうな楸の手をぎゅっと握って、綺姫は歩いてきた道を振り返る。彼女に倣って楸も振り返るが、濃霧が周囲を隠してしまい、どちらから来たものかまるで見当がつかない。この場でぐるりと体を何回転かさせたなら、間違いなく往路も行き先も分からなくなるであろう。まずい、と楸は思った。お社に着いたとして、果たして無事里に帰りつけるのだろうか。一抹の不安が頭をよぎる。
(こんなことになるんだったら、おーちゃんの言いつけをちゃんと守っておけば良かった)
 ため息すらも出てこなかった。楸は次第に冷えてきた空気に奥歯をがちがちを鳴らし、綺姫の手をぎゅっと握り返す。二人の掌はうっすらと汗をかいてひんやりとしていた。言葉とは裏腹に、互いの緊張が伝わるようだった。




 八人衆の一人であり、春の夫である道順の屋敷は藤間屋敷の向かい側に並ぶ、黒瓦の屋敷群のひとつだ。八棟の屋敷は神路を挟んで左右に分かれて建ち並んでおり、山あいの家にしては瓦や柱の細工が京(みやこ)風に洗練されていた。
 それぞれは藤間屋敷ほどの大きな敷地はなく、精々その三分の一ちょっとの広さだった。というのも、これらの屋敷はあくまで仮の住まいであり、各々は他の場所に正式な屋敷を構えている。八人衆を任された者だけが、八人衆を拝命されている期間にだけ住まう家なのだ。
 ここには最低限の母屋と離れ、それに土蔵しかない。馬屋は母屋の脇に隣接しており、ごく狭い造りになっている。与えられた田などは本当の住まいの近くにあったし、井戸も共用の場所から汲んだ。尤も、田植えは田畑を賃借している農民がするし、水も使用人が汲んでくる。若しくは藤間屋敷の裏に聳える神奈備の遥拝所脇にある清水を評定のついでに頂く。自ら働くことといえば忍びとしての勤めがほとんどのため、別段不便することはなかった。仮に代々武勲のある家柄でなく、農耕に携わっていた人が立身出世したとしても藤間家から使用人が来る。但し、そういった人物の場合は長年の習性で自ら働くことが多かった。
 道順は武家の出身だったが、多く畑を耕した。好んで耕作しているわけではなく、手持ち無沙汰故に始めた取り組みが、生真面目な彼の日課となってしまったのだ。戦も下火の昨今では暇な時間を持て余すことが多かったし、彼は親友だった十六夜の死後、すっかり戦いに嫌気がさしてしまった。若い頃こそ功名心に走り、戦いを好んだが、今では命を育む方が性分に合っているとさえ感じている。だからこそ本来与えられた田畑とは別に、小さな菜園を瓦屋敷にもこしらえていた。
 朧は道順が屋敷の中には居らぬと知って菜園へ回った。
(前に言葉を交わしたのはいつじゃったかの)
 彼女は柳行李を抱きかかえながら、ふと考えた。藤間屋敷では顔を突き合わしても、彼が姿を消すまで一方的に頭を垂れるばかりで、決して私的な話などしなかった。前に言葉を交わしたのは恐らく郷に住むことになった楸を里中に紹介しに回った時だ。その時は春が間に入っていたので、道順と二人っきりではなかった。しかし、どう察知しても今や早良家瓦屋敷の小菜園には一人の気配しかない。
(うむ……、どのようにして声をかけようか)
 柳行李を抱える手がびりびりと緊張している。どうにかするとその痺れと熱で胸が焼け焦げてしまいそうだった。

 朧と道順は、春の言葉を借りるなら、元々は父親と娘のような関係であった。朧は子どものころに預けられていた寺を焼かれ、たった一人で生き残っていたところを十六夜と道順に拾われて風刻の里へやってきた。若い二人の熱心な取り計らいによって朧は十六の歳まで里に住まうことを許可された。その頃になれば嫁の貰い手も見つかるだろうから、嫁入りと同時に本来里に関係せぬ朧を血生臭さから解放しようという長の計らいであった。或いは、里の忍びに嫁ぐことでもあれば、その時に改めて村入りをして里中に披露目をするはずだった。
 朧は道順と春が既に所帯を持っていたため、まだ独身だった十六夜の家――現在では彼女と楸が住む家――に住まうこととなった。道順は毎日のように十六夜邸に通い、甲斐甲斐しく朧の世話を焼いた。十六夜は妻を娶るつもりがなかったので行く行くは彼女を養女にしようと考えていたのだが、働き盛りだった十六夜は東西に奔走してすっかり手続きがおろそかになってしまっていた。その内に雷神の宮ときな臭くなり、ついに戦が起こる。
 戦は数か月を経て十六夜と雷神の宮の将の討死により漸く幕を閉じる。
 上忍・十六夜の庇護は、子どもの朧が想像するよりもうんと強固なものだった。養女の話がとん挫してしまった朧は、もはや他の上忍たちにとって余剰な存在に他ならない。彼が亡くなり、彼女は無邪気であれた子ども時代を無理やりにでも捨ててしまわなくてはいけなかった。子ども故に許された非礼の権利は、突然に剥奪された。彼女は養い親の居なくなった今、周りの強い風当たりを非常に敏感に察知していた。
 二人は決して十六夜を媒介にしか仲を取り持てぬ間柄ではない。道順はそんな朧をやはり、十六夜の生前と変わりなく愛しんだ。十六夜が居らぬ分、今度は春も含めて積極的に会いに行った。それが朧にとってどれほどの励ましになったかは計り知れない。しかし、もう一方では、折角捨て去ろうと努力している子どもの影を連れ戻してしまいそうで恐れた。――甘えは己を破滅させる。小さな朧には自らを戒めることでしか、自制を保つことが出来なさそうだった。
(本来わしは十六夜とも道順とも疾風とも並んで歩くことの許されぬ存在なのじゃ)
 そして彼女自身もはっきりと自覚する。ただただひれ伏し、誠心誠意仕えることだけが朧に許されたことだったのだ。生きるために与えられた仕事をこなし、食う。人に与えられたぬくぬくとした場所で、他人の権限をまるで己のもののように振りかざし、当たり前に使うことは間違っていたのだ。それまでの生活が一変した。
 二人が疎遠になったのはその後のことだ。
 己の死を恐れず、己の幸福を顧みず、己の心を闇に葬り凍てつかせよ。そうあらなければいけない。でないと、いつか勤めで大失態を犯すかもしれぬ。朧は十六夜が死んでからずっと考えてきた。道順たちとのふれあいで得た心の安息は、ともすれば、己の隙を突きかねなかった。温かな生に縋りついてしまいそうで恐ろしかった。
 そして、朧は道順に別れの言葉を告げたのだった。
「どうかわしの自立のためと思って放っておいて欲しい」
 戦場にその鬼ありと里で言われた男の表情が翳り、朧はその場を逃げ出した。

「道順、様……」
 朧は鍬を持った道順に意を決して言葉をかけた。道順は手ぬぐいで汗を拭いながら彼女を認めると、菜園の柵に鍬を立て掛け、こちらへやって来る。
「如何様だ」
 朧が道順に別れを告げてからというもの、彼は勤めて彼女を大勢の部下の一人として扱った。大勢の村人の一人ではなく、部下の一人として扱ったのは、彼女の務めが全て八人衆による命だったからでもあったし、くノ一制のなくなった今でも朧を忍びの一人であると勘定する贔屓目からでもあった。
「奥方様よりこちらを預かって参りました」
 朧は作法に則って跪き、顔を伏せる。柳行李を差し出すと、道順は肉厚のごつごつとした手でそれを受け取った。道順と二人きりであることが怖かった。それに、彼の瞳を直視することも怖い。そう、朧は今でも彼に甘えてしまいそうな己の覚悟のなさが怖い。表面は繕うことが出来ても、心の真実を変えることは容易には出来なかった。しかし、彼女の心を悟ってか否か、道順は、
「一休みする間、話し相手になれ」
 と彼女を縁側に誘う。位が上の者に対して断ることのできぬ朧に許された答えはただ一つ。
「かしこまりました。お供仕りましょう」
 道順は朧に座るよう促すと、自身もどっと腰を降ろし、深呼吸をひとつ。
「茶を立てましょうか」
「いや、いい」
 断られた朧は、躊躇いがちに道順と距離を取って座る。茶のひとつでもあれば、場の雰囲気を紛らわすことも出来ようにと思わずには居られなかった。
「それで、変わりないか」
 道順がぎこちなく尋ねる。
「はい」
「楸は元気か」
「はい」
「そろそろ男子らしくなってくるころだな」
「はい」
 何も朧一人が緊張しているわけではなかった。彼女の緊張が伝わってか否か、道順にも忍び働きの時には決して見ることの出来ぬ不器用さが滲み出ていた。互いの近況を話すでもなく、楸をだしに無理に会話を繋げようとしている。真に聞きたいことはまるで口に出さない。それでも嬉しかった。
 本当は語りたいことが沢山ある。楸の成長、それを通して憶測する十六夜の奮闘、どんなにか楸が可愛いかと、きっと道順ならば同意してくれるだろう。しかし、一度話し始めれば、きっと今までの空白を埋めようと、堰を切ったかのように話してしまう。それでは今までの努力が水の泡だ。それに、たった少しの短い会話の中からでも、どれだけ彼が己を案じているかが分かる。春の世話焼きに感謝しなければならない。
(やはり、道順が好きじゃ)
 朧は己の頬がほのかに朱をさすのを感じた。昼空の包み込むような天道の温かさは、いつしか胸の奥にまで滲み渡って居る。
「何か困ったことがあればいつでも頼って良い」
「ご厚意感謝いたします」
 今度ははい、とは返事がし難かった。しかし、朧がどれだけ離れようとも、道順は――無論春も――この場所をいつでも帰って来られる家にしている。多くは語らぬが、そういう心積りであることを言葉や眼差しの端々で伝えている。朧は今の関係を変えるつもりは毛頭なかったが、それでもどれだけか心が救われることか。
 頭(こうべ)を垂れることでしか伝えることが出来なかった。

 道順の屋敷を辞して、朧は見廻りの支度のため、自宅向かった。
 その帰途で友人の更也に出会った。彼女の親しい友人で、里の秀才とうたわれる人物だ。整った顔立ちで女たちから熱い視線を送られているが、それがもとで女嫌いだった。里の行事で息が合ってからというもの、二人は仲が良い。
「朧、探したよ」
「どうした。見廻りまではまだ時間があろう?」
 この日、朧は更也と組になり、日暮れから里を見て回る予定だった。
「そのことじゃない。楸と綺姫様のことでちょっと君の耳に入れておきたいことがある。取り越し苦労ならばいいんだけど」
 微かに表情を曇らせる更也を前に、朧は眉を跳ね上げる。
「まさか楸が綺姫に何ら悪さをしたというのか」
「逆だね。楸はいやいやといった感じだったけれど、二人はどうやら方向ナシの森に向かったらしい」
「あそこには近寄るなと口を酸っぱくして言っておるが……」
「君のことだからそうだとは思うけれど、後をつけてみたら結界が歪んでいた」
 更也はすらりとした輪郭の、尖った顎に手を当てて思索しているようだった。
「あそこは僕たちが後で見廻りに行く場所だろ? ただでさえまだ十五に達していないから森の抜け方を教えていない。本当に森に入ってなければいいんだけど」
 それを聞いた朧の決断は早かった。
「ならばわしが行って見て来よう。悪いが、後のことは頼んで良いか?」
 更也は一つ返事で頷いた。
「勿論。気をつけて。時刻になれば僕も行こう」
「すまんな」
 朧が森へ駆ける。
 あの二人のことだ。殊に冒険心の強い綺姫が一緒だから、森に進入したことは大いに考えられる。しかし、此度の見廻り区域に入っているということは、雷神の宮の忍びがそこに潜入する可能性があるということだ。幾ら霧が濃く視界が悪い場所とはいえ、山岳の孤島ではない。複雑な道筋だが麓から登ってこられるのは確かだ。そして、風刻の里の領地を狙う雷神の宮が山道の情報を得ておらぬとは考えにくい。
 本当に何も起こらなければ良いのだが。
 すぐ目の前に地面近くにまで垂れ下がっているカンジョウ縄が、風に吹かれ揺れるのが見えた。







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