第一章 風の者(3)

  納戸に広がっていたのは、おぞましい狂気の宴だった。
 い草のまだ青みがかった清々しい色合いとは正反対に、部屋の角には赤黒い液体が錆のようにこびりついていた。彼の母親は壁面に描かれた赤い花を背負うようにして座っている。元々白かったであろう皮膚は破れ、打撲のような黒班があちこちに浮かんでいた。刺青のように肌に刻み込まれた赤い流紋は、彼女の体内を廻っていた血潮だろう。生の気配などあるはずもなかった。柔らかそうな青白い両腕が子を誘うように広がっていたが、彼女は子への愛おしさも、己の苦しみも、伝える術はもはや持ち合わせてはいなかった。生前の見る影もなく、からからに乾いている体は、ほっそりとした指先の輪郭だけが元の艶めきを偲ぶ唯一の部位に見えた。
 ヒサギの母親は明らかに他人の手によって命を奪われていた。誰の目から見ても一目瞭然だった。それも胸を一突きしただけの殺し方ではない。殺人者は悪趣味なほど、必要以上に執拗に彼女の体を嬲ったようだった。
 この酷い有り様に朧は刹那言葉を失った。かれの見立てでは、死からはさほど日が経っていないようだった。まだ蛆も湧いていない。それでも、五感が戻った今となっては気分を害する臭いが鼻をついてまわった。同じ屋根の下に住まっていれば、この臭いに慣れてしまえるものだろうか、と朧はヒサギを抱く腕に力を籠めた。
(わしの場合は既に死臭に慣れすぎているが、こやつは……)
「おーちゃん、大丈夫? 顔が青くない? まだ怪我も治ってないし、疲れてるんじゃないの。なあ、母さん」
 ヒサギは朧の腕からするりと抜け出し、もう片方の襖を開けた。その表情には一点の翳りも見えず、躊躇する様子も見られなかった。否定するべくもなく、これが彼の最近の日常に他ならぬのだろう。
「ヒサギ、見るな! お主の母御は――」
「なーに言ってんだよ、おーちゃん」
 ヒサギは朧が表情を強張らせる理由が分からず、なあ、と母親に同意を求めた。母親は無言で俯き、痩けた胸元に影を落としていた。ヒサギは頷いた、と見たのだろうか。
「よもや気付いておらぬというのか」
「おーちゃんの言ってること、よく分かんないよ。だって病気をしてからの母さんはいつもこんな感じなんだぜ。俺、毎日見てるから知ってんもん!」
 朧はどきりとした。胸がきゅうとわし掴まれ、何と哀れなことかと、過去の己を思い出した。
(わしも十六夜を亡くした時は同じようなものじゃった……)
 かれは掌の料紙を親指で摩った。
 過去の朧は十六夜の死を受け入れ難く、夢であればいいと願った。それが次第に自己暗示となって都合の良く胸に刻まれた。ふとした瞬間に戸を叩くのではないかとい夢想を半ば真剣に信じたこともある。だが、かれは幼い頃より人の死に多く関わり、また、周囲の人間が現実を直視せよと説いた。周囲の熱心な説得は遂にかれを夢幻の世界から現実に引き戻したが、ではヒサギの場合は如何であろうか。
 ヒサギは母親の死に気付いていない。彼にとっては、ある日、母親の様子がいつもと少し変わっただけに過ぎぬ。病身なのだから当然起こりうる事態なのだ、と考えているに違いなかった。彼にとっては日常に起こった些細な事柄でしかなく、喋って動き回っていた母が、病を境に口数が減り、遂には動きをやめただけなのである。一つの変化を契機に、現在の姿が恒常的となっただけなのだ。己のように死を諭してくれる人間が周り居らなければ、経験の少ない幼な子は生きるも死ぬも見出すことは出来ぬ。
 だから、見るな、といった言葉は間違っているのかもしれないと朧は思った。今の彼に必要なことは明らかに正反対のこと。即ち、彼は見なければならなかった。
 目の前の子の屈託のない笑顔を見ていると、かれは腹の底からじわじわと怒りがこみ上げてきた。何者がどのような由をもって彼らの穏やかな営みを乱暴に取り上げたのか。
「なぁ、おーちゃん。母さんがこっちに来いってさ!」
 ヒサギは母親の骸に寄り添って、生者のそれと同じように話し続けている。朧は、ああ、と短く返事をするとゆっくりと立ち上がり、納戸に踏み込んだ。立ち上がると、鼻につんとした死臭が届いた。
「立ち上がって大丈夫かよ、おーちゃん」
 歪んだ表情を見せる朧に、ヒサギは不安げに尋ねる。朧は頷くと、彼の柔らかい髪を撫でた。
「ああ、大丈夫じゃ。お主の痛みには敵わぬ」
「ん、何のこと? 俺どこも痛くないよ」
 朧はヒサギの傍に膝をつくと、じっと屍となった母親を眺めた。さぞかし無念だったろうに、とかれは暫し瞑目した。辺りをよくよく見れば、血が、本来ならば有り得ぬ方向に散っている。もしかすると彼女は死の間際まで最悪の運命から逃れようと、何者かに抵抗していたのではないだろうか。
 朧はふと、野盗の類でなければ、雷神の宮の者の仕業かもしれないと思った。幾ら敵とはいえ、穿った見方であるとの自覚はあったが、まるっきしないとも言い切れなかった。
 どういう理由かは分からぬが、彼らには異国人を狩る習性がある。母親はヒサギと同様に黄金の髪を先祖より頂いているから、狩られたとて不思議ではない。それに傷口を見ると変色している。得物に毒が塗ってあったのだろう。強盗が念入りに刃に毒を塗らぬとも限らぬが、己の里からも雷神の宮の里からも程近い立地から、どうしても野盗だとは思えなかった。
(子どもだけが偶然にも九死に一生を得たか)
「ヒサギ」
「ん?」
 名を呼ばれたヒサギは母親から朧に視線を移した。朧は再び彼の頭を、今度はしっかりとした手つきで撫でると、背筋を伸ばし、もう一度、壁に背を預けた母親とヒサギの顔を交互に見た。母親の表情は長い前髪で隠れている。その表情が覚悟を決めた顔なのか、苦悶に満ちた顔なのかは定かではない。だが何時までも母親をただただ哀れんでいるだけでは居られなかった。
 朧は再びヒサギのまだまだ可愛い盛りのあどけない顔を見据え、言った。
「よく聞け、ヒサギ。お主の母御は、もう死んでおる」
 ヒサギの表情が凍てついた。
「おーちゃん、何言ってんだ。怒るぞ、俺」
 青い瞳で朧をきっと睨みつける。きっとこの母親も同じ色の瞳をしていたのだろう。
「では、見ろ」
 幼い瞳に朧は厳しい眼差しで返し、冷たく言い放った。彼の小さな両肩を掴むと、座り込んだまま動くことのない母親に正対させた。
「彼女が生きた証を信じるならば、お主は受け止めねばならん。自分勝手に母御を生かしたままにはしておくな。ヒサギ、死した者は生き返らぬよ。生者必衰の理はわしら衆生ではどうすることもかなわぬ」
 朧の口調には慈悲めいた温かな気持ちは籠もっておらず、あくまで無情だった。ヒサギの視線はただ真っ直ぐに母親の元に注がれていた。
「じゃから、母御の死を認めよ。ヒサギ!」
 まだまだ母の恋しい年齢の子に、母親が死んだことを受け入れさせることは非情だった。突然その存在が喪失したと認められぬことを朧は身をもって知っていた。しかし、それでも言わねばならぬ。彼の者の死を見よ、と誰かが諭してやらねばならぬ。でなければ、少年は妄想の檻に囚われたまま、近い内に母親を殺した何者かの第二の犠牲者になりかねない。かつての自分にそう語りかけた人間が居たように。今、ここには朧しか居ない。なればその役目は己に与えられたのだ。
 ヒサギは顔をあげようとしない母親を見つめて押し黙った。出会ったばかりの見ず知らずの人間に死んでいるなどと侮辱されているのに、母親は穏やかな気性のためか言い返すことはない。それとも、朧が言った通り、彼女にはもうその術がないのだろうか。
(そんなはずない)
 ヒサギは頭を振った。そうだ、それどころか、暴言に嫌な表情の一欠けらも見せずに、二人のやり取りを微笑みを湛えて見守っているではないか。
(ほら、笑って……)
 その筈だ、とヒサギは己の表情を緩めながら少し屈んで、いつものように母親の顔を覗き込んだ。
(ほら、笑って……)
 そこでヒサギは目を瞑った。
「ヒサギ……」
 朧が彼の肩に手を置いた。ヒサギはそれを払うようにして振り返り、全身をわなわなと震わせながら叫んだ。
「い、生きてる……!」
「もう死んでおる」
「いいや、違う! 生きてる! 生きてる! 生きてるんだ! だってだって、母さんはさっきまで……!!」
 ヒサギは動揺して何度も首を振って否定した。母親が生きていることを朧に信用させるために語気を強くしたが、強めれば強めるほどに、表情は却って悲愴を帯びた。
「お主の母御は何日も前に死んでしまった」
「違う! 違う違う! 母さんは死んでなんかない!」
「きっと何者かに殺されたのじゃ」
 朧は酷く冷淡に、言葉の取捨をせず、ただ淡々と事実を突きつける。
「……死んでなんか!」
「お前は母が懸命に生きたことも認めてはやれないのか!」
 乾いた音が響いた。頬を叩かれたヒサギの視線が朧から逸れ、再び眠る母親が視界に入った。生を、安息を、ささやかな夢を欲しながらも無残に全てを絶たれた女の姿があった。視線の先にいるのは確かに己の母親だ。今までその姿を見ても悲しみの感情がこみ上げることはなかったはずであったのに、彼女の力の抜けた指先に触れたとたん、大波のようにそれは到来した。母親との安らかな日々、ありふれた日常が走馬灯となってヒサギの幼い身体にどっと打ち付けた。
 ヒサギはこの先ずっとずっとこの家で母親と住まうのだと思っていた。それは揺るぎない約束された将来だと思っていた。だが、その当たり前はもうない。気付けば忽然と消え去っていた。
「お主の中だけで勝手に母御を生かすのではない」
「……きてっ…………の、に……っ……!」
 ヒサギはずるりと力なく畳に膝をつき、身を屈めた。堰を切ったように目から涙が溢れ出てきた。破れたい草の先が衣をすり抜けて彼の肌を刺した。ちくちくとした痛みが伝わってくる。いつもは大して痛いことはないはずなのに、今日は不思議と錐で突かれたかのように痛んだ。痛みは膝をすり抜けて心の臓を突き刺すようで、ヒサギは震える手で胸を掴む。
「安らかにしてやれ。それはお主にしか出来ぬことじゃ」
 朧の言葉を聞いてか否か、ヒサギから嗚咽が漏れる。彼は母が既に居ないと言う現実に直面していた。泣くことで、或いは他人にすがることで、少しでも気が紛れるのならどんなに救われることか。朧は彼の背をさすった。何度背をさすっても、ヒサギの悲しみを消し去ることは出来ない。過去に朧自身がそうであったように、彼の悲しみは彼自身で癒していくほかはないのだ。母の死を諭した自分に一片の責任もないとは言い切れないから、少し後ろめたくはあったし、幼子が初めて体験する死というものが、病や自然死によるものでない斯様に凄惨な事情であったことは酷く哀れだと思った。同情するには事態が重々し過ぎた。だが、それでもあのまま空虚な生活を続けるよりはましだろうと朧は考えた。
(尤も、己のことでない故、このように出来るのかもしれんがな……)
 震える小さな背中を見ながら、かれは己の無力さに胸がひしがれた。
「ぐ……、くくっ……」
 ふと、ヒサギの咽びに混じって何者かの吐息が漏れ聞こえてきた。朧が改めて耳を澄ますと、それは男の失笑のように感じられた。
「むっ」
 突然空気が変わった。朧は腰から素早くクナイを引き抜くと、それを頭上に構える。鋭い金属が互いにぶつかり合う音が響く。直後、何かが細い音を立て畳の上に落ちた。
(棒手裏剣……)
「何奴!」
 かれは手にしたクナイをそのまま天井に投げつける。クナイが天井の一点を突き刺したのと同時に、何もないはずの空間から一人の男が忽然と姿を現した。男は藍色の覆面をしているが、目元だけが露わになっている。目の縁には細い波紋のような戦化粧が朱で施されており、それが男の三白眼をより鋭く浮き上がらせていた。
「面白いものを見せてもらった」
 天井に姿を浮き上がらせた男は、すとんと母親の骸の傍に降り立つと、楽しそうに目元を歪めて死者の顎を掴んだ。覆面の下ではにたにたと嫌らしい笑みを浮かべているに違いなかった。この招かれざる客が一体何者か、朧には凡そ検討がついていた。
(やはり雷神の宮!)
 ヒサギは男が突然目の前に姿を現したことが夢でないと気付くと、朧にしがみついて拳を固くした。
「な、誰だよお前……! 母さんに触るな!」
「ほおぅ? ご挨拶だなぁ」
 細長く吊り上った白目の多い瞳が楽しそうに子どもを見下ろした。
「童。この前会った時は気を失ってたもんなぁ? 俺は何日も前から、お前が何時俺に気付くかと一人で賭けをしていたんだが、大外れだ。今しがた気付くとは遅いったりゃありゃりねぇ」
「何の……、こと……」
 男は目元を一層歪めると、母親の顔を持ち上げた。この上なく下劣な眼差しが青白い女の死に顔を舐める。まるで屍を値踏みしているかのようで、ひょろりとした男の体を一層妖のように見せた。
「覚えていないのか? てめぇの母ちゃんをこうしたんじゃねぇか」
 男は節くれだった長い人差し指で死者の頭を畳に放り投げた。ぐらりと母親の骸が傾き、麦わらのように艶をなくした長い髪が彼女の顔を滑り落ちていく。ヒサギは母親の死に顔にびくっとして、朧の着物の裾を握りしめた。
(無理もない)
 朧は背に伝わる指先の微かな動きからヒサギの感情を読み取る。白昼に明らかとなった彼の母の顔は肉が削ぎ落ち、眼窩の窪みがはっきりと見て取れた。長い睫毛をつけた面は、朧には未だにとても美しく思えたが、恐らく生前と違った顔立ちになっているのだろう。
 この男が母親を殺したのだ、とヒサギが気付くまでさほど時間はかからなかった。悲しみと恐怖が怒りに火を点けるのは至極簡単なことで、ヒサギが恐ろしく単純な思考を抱くのは必定だった。
「殺してやる……!!」
 ヒサギは獣が威嚇するように吠えると、朧の腰からもう一本のクナイを抜き盗り、怒りに身を任せて男に向う。
「ヒサギ! やめよ!」
(お前では敵わん!)
 子どもの思いがけない行動に、朧は一歩、飛び出るのが遅れた。覆面の男の視線はしっかりとヒサギを捉えている。その牙は男の間合に入った瞬間、彼に襲い掛かるだろう。
「喧嘩売ろぉってのかぁ? 面白い! 穢れた血の抜け忍女の首だけでなく、餓鬼諸共この巨摩(こま)様が雷神の宮に持って帰ってやろうじゃねぇか!!」
 男・巨摩がにたりと笑い、腰の大刀を抜く。
「ヒサギ!」
 朧は右手で腰に佩いた小刀を抜いた。しかし、ヒサギは既に巨摩の一足一刀の間合まで踏み込んでいる。
(間に合わん……!)
 巨摩が上段から白い刃を閃かせて振り下ろす。一刀両断にしようと乱暴に打ち下ろされた剣先を、ヒサギは寸前まで引き付けて体を捻って身を開いた。
「ちっ、避けたか。運のいい餓鬼だ」
 巨摩の大刀がざっくりと畳に突き刺さり、辺りにい草が飛び散る。獲物を獲り逃した巨摩はつまらなさそうにヒサギを見た。
「お前なんか……!」
 ヒサギは刀を畳から抜こうとする巨摩の腕に両手でクナイを突き立てた。憎しみを先端に宿らせたクナイは、鈍い感覚を伴って男の皮膚を貫いた。
「殺してやる!」
 怒りの熱に浮かされて、ヒサギは何度もクナイを腕に突き刺した。表情にはまだ幾らかの怯えがあったが、それよりも怒りが打ち勝っているようだった。しかし、巨摩の腕に突き刺さったのは先の一度っきりで、後は腕の骨を滑り、皮膚を傷つけるだけであった。
 巨摩の腕から赤く温かいものが滲み出る度に、ヒサギは目を背けた。他者を傷つけることに慣れぬ穢れのない心に、後悔の念がどっと押し寄せてきているのだろう。だが、彼はそれでもやらねばならぬという使命感に駆られていた。母親の仇を取る。ただそれが目的だった。
 腕が赤に染まるほど血が滴り落ちた男は、しかし、それに何の痛みも感じていないようだった。子どものつける引っ掻き傷など、これからの殺しの余興に過ぎないと言わんばかりだったが、ヒサギには関係がなかった。だが、一見朱に染まって見える男の腕が、単に少量の血液が腕に広がっているだけで、致命傷には程遠いことをヒサギは徐々に理解をし始めていた。怒りの熱が急激に冷まされると、ヒサギの全身に突然恐怖が襲い掛かり、体が凍てついた。
「満足したか? ええ? 童」
 ヒサギは男の目の奥に己の死の陰を見た。この男はきっと己を殺すと野生の勘が教える。彼は愉快に歪む男の小さな瞳の奥に、ほの暗く潜む無慈悲な殺意を嗅ぎ取る。遂にクナイを刺す手が止まった。
「なら、遊びは終わりだ。それを後何回繰り返したところで、てめぇの軟な腕じゃあ俺は痛くも痒くもねぇんだからなぁ」
 巨摩が大きく腕を振り払うと、ヒサギの小さな体は軽々と畳の上に飛んだ。男はそのまま素早く畳から大刀を抜き取り、再び切っ先を頭上に振りかぶった。男の悦びに沸き立つ顔を最後に、ヒサギは目を瞑って頭を抱えたまま縮こまった。男の快楽の糧となるのが悔しかったが、手も足も出なかった。
「させぬっ!」
 ひゅんと空を切る音がした。
「ぅああああっ!!」
 刀を弾く音がした。
 ヒサギの頭はさっと血の気が引いて、真冬の池の如く冷え冷えとしていたが、不思議と刀が肉に食い込む痛みも、痺れるような熱さも伝わって来なかった。それどころか身体のどこも痛くない。
「貴様のような下衆に、この幼子の命、呉れてやるものか」
 どさりと重い音がして、ヒサギは恐る恐る両目を開く。目を開けば涅槃の光景を目の当たりにすると思っていたが、そうではなかった。小刀を構えた朧が白い包帯姿のままに巨摩と対峙している。それだけではない。その両者の間に刀を握った腕が落ちていた。
 朧の右手首は血塗れていた。てらてらと日の光を浴びて白光りするそれにヒサギは顔を青くして言葉を失った。
「う、腕! おーちゃんの腕が!」
「案ずるなヒサギ、白刃前に交われば流矢を顧みずじゃ」
「てめぇの腕じゃねぇだろうがぁっ」
「然もありなん」
 朧が不敵な笑みを漏らして、右腕を軽く振るった。ヒサギはてっきりかれが己を庇いだてしたがために、自身の右腕を犠牲にしたのだと早とちりした。改めて目を凝らすと、閑寂に横たわるそれは朧のものとは言い難かった。逞しい太さを畳の上で誇示するそれは、かれの細身には似つかわしくない。汚れてしまったのう、と右腕に付着した巨摩の血を吹き飛ばそうと、腕を振るいながら独りごちる朧越しに、血の溢れる腕を残った反対の手で押さえる男がヒサギの視界に飛び込んできた。
 巨摩は先ほどとは打って変わり、苦々しい顔で息を荒げている。右腕からは赤き川が滾々と流れ、容易に堰き止めること出来ぬのは一目瞭然であった。ヒサギは目前の異様なやり取りに慣れぬまま、ひっと息を呑んだ。
「お主の仕事はもう終えた筈じゃ、子どもの前で人殺しをしとうない。消えるがいい」
 朧のにべもない言葉に巨摩が逆上した。男にしてみれば、小娘に右腕を取られただけでなく、命を見逃してもらおうとは汚辱を受けたも同然だった。殺しを快楽とするも、忍びとしての最後の誇りはまだ残っていたようだった。
「このようなザマでおめおめと郷里に戻れるか」
「そ、そうだよ! 姉ちゃん! こんなやつ生かしておく必要ない」
 ヒサギも巨摩に同調し、憎き仇の息の根を止めたいと念じている。
「ヒサギ、わしに二つ目の屍をお主の眼前に晒せというか」
 朧は鋭い表情をそのままにヒサギに振り返った。頬に返り血を浴びて、周辺だけがやけに赤々としていたが、一種病的な白磁のような顔色はまるで血の通った人間に見えぬ。かれもまた、怪我の癒えぬ手負いの犬に過ぎない。ヒサギは巨摩が恨めしいあまりにそのことをすっかり失念していた。それどころか、白い面(おもて)で生死の際に立つ姿を、どこか鬼神然としていて神々しいとすら感じていた。
(哀れな)
 朧が見つめる間、子どもの強固な意志は一寸も揺るがなかった。
「まぐれで俺の腕を持っていった小娘と震えていやがるだけの餓鬼なんぞ左腕一本で片付けてやらぁ」
 刹那の沈黙を破ったのは巨摩だった。辛うじて残った左手で小刀を抜刀し、二人をじっと目で制する。攻撃の意思を露わにした男を前に、じりりと緊迫した空気が漂う。朧は彼の出方に警戒しながら、眉間に皺を寄せて睨み返した。もはや戦いは避けられぬかと覚悟して、かれも青眼に刀を構え直す。
「どうしてもやるというのか」
「ここで引き下がっちゃあ西将麾下の名折れよ」
 いたしかたあるまい、と朧は肝を据え、心を落ち着かせる。互いに万全たる身であらざれば、焦燥に支配されず、平常心を以て相手の心を制した方に勝機があるはずだ、と傷で軋む胸を大きく開いて丹田に力を込めた。
「なれば風の霞、お相手つかまつろう」
「何っ?!」
 巨摩の目が猜疑とともに大きく見開かれた。
 最初の一刀は大きく仰け反った巨摩の左手首を掠めるだけに留まった。一太刀で致命傷を負わせ、仕留める心算だったが、相手も戦いは不得手ではないらしい。朧は瞬時に間境まで身を引く。
「てめぇ、風の霞と言ったがまことか」
 巨摩が朧の爪先から頭のてっぺんまでを値踏みするような視線で舐めた。彼はまさかあるまい、という否定の色を表情に浮かべる。
「何故偽りを申す必要がある。わしがまこと風の霞じゃ」
「ふ、ははははは!」
 男が大仰に笑ったその隙に、朧は二の太刀を繰り出す。
「そんなことがあるかっ! 風の霞といえば昨今最も影の世界を賑わす名うての刺客だぞ! てめぇのような小娘であってたまるか」
「ならばわしらの前を去り、別な機会にお主の言うまことの霞を探すか、冥途の友に尋ねるかするが良い」
 朧の刀が巨摩の胸板を横一文字に薙ぎ、その軌跡をなぞるように赤い血潮が迸る。藍染めから黒ずんだ胸元が覗いた。男はここまできて目の前の小娘の殺気に気圧されていることを認めねばならなかった。少しでも防備に甘んずれば斬り伏せられていた。小娘に似付かわぬ鬼神を宿した瞳は、その奥で静かに咆哮を上げている。
「今ならば見逃してやらんでもない、さあ、疾くと去れ」
 見逃せば後に遺恨の種となることを朧は承知していたが、己の体力も今や精神のみで支えているようなものであったし、幼いヒサギの前で人殺しの業を披露したくはなかった。男を郷里に帰せば〈風の霞〉の顔は割れてしまい、今後生業に支障は出ようが、今のかれには先の先を見通す余力は残っていなかった。
「ならば、望み通り去ってやろう」
 風の霞の名を恐れてかはたまた失血のためか、男は徐々に蒼白を増していく顔で不敵な表情を形作った。
「だが、てめぇらも道連れにしてやるよ!」
 朧は巨摩が懐から取り出した二本の竹筒を見て顔を歪めた。
「ヒサギ!」
 彼が喋り終えるのを待たずに、朧はヒサギの手を引っ張り、脇に抱え込んだ。
「これで俺は風の霞を斃した英雄となれるわ! 例えまことの霞といえど、たかが小娘如きに西将麾下の誇りを汚させるものか!」
 巨摩は囲炉裏端に来て筒先の硝石の滲み込んだ火縄を蕩ける炎にかざした。朧は彼が点火した筒を天井に放り投げるのを見届ける間も惜しんで玄関へ駆け出す。こなたへ投げずに天井に投げたことが一層危機感を煽った。
(あやつは何日も前からこの家の様子を窺っておったのだ)
 さすれば、予めに火器を仕掛けておくことも容易い筈ではないか。朧はヒサギを正面に抱きかかえると跳躍した。
「おーちゃん、どこに行くんだよ! 母さんがまだ中に……!」
「目と口を閉じておけ」
 かれは口早に告げると、有無を言わせずヒサギの口に手を押し当て塞いだ。
 白い光が眼前を覆い、爆音とともに男の笑いの交じった断末魔が聞こえた。礫が背後から矢のように全身に打ち付ける。体の軽い二人は爆風にいとも簡単に吹き飛ばされてしまう。ヒサギを上半身で覆うように抱え込んだ朧は足の踏ん張りも空しく、何度も大地に体を叩き付けられ、草葉の茂みに助けられて、やっと静止が叶った。
「か、母さんは……」
 腕の中のヒサギが声音を震えさせて呻いた。恐怖に潰された声を喉の奥から絞り出した母を呼ぶ声は、背後の炎が爆ぜる音にかき消されそうなほど不安げだった。ヒサギは無事だった。頬に掠り傷を負ったものの、大きな怪我の心配も無さそうで朧は安堵した。
 朧は繁木を掻き分けてヒサギの家を探った。
 梢で形作られた網目の向こうは彼岸であると言わんばかりに、木々が境界線を敷いている。その隙間を縫って、煙炎で輪郭が曖昧になった家が遠目に見えたが、もはや往時を偲ぶ余地がないほどに破壊されており、時折木材が割れ落ちる派手な音が木霊した。
「母さん……!」
 炎上した我が家に目を疑ったヒサギが朧の腕をすり抜け、一直線に家へ向かう。
「無茶じゃヒサギ! 行くな!」
 彼は朧の制止も聞かず、どんどん走っていく。朧は再び開き切ってしまった傷を抑えながら緩慢な動作で後を追った。朧はとっくに悟っていた。ヒサギの母親も、雷神の宮の巨摩も、あの炎の中にみな埋もれてしまっている。ヒサギは諦めきれぬだろうが、一縷の望みを胸に抱けども、灰塵に帰した者を顕世に連れ戻すことは不可能だ。
(そうだ、十六夜)
 朧ははっとして己の胸に手を当てた。上着は家の外に干してあって着衣していないのだから、懐に忍ばせるはずがない。かれは腰の巾着を乱暴に鷲掴んだ。袋の中で糸束状のものがくしゃりと形を歪めて広がった。
(良かった、ある)
 安堵するや否や、かれは己の利己の心を恥じた。
(身勝手な)
 ヒサギの母親の骸はきっともう残っていない。せめて骨だけでも拾ってやりたいが、燃え滾る火焔に阻まれては至難の技だ。愛する肉親が生きた証にどんなに些細な品でもよい、何かしらかを手に収めたい気持ちは誰しも同じではないか。




 ヒサギは家から少し離れた地面に蹲っていた。火の粉が爆ぜ、時折灰の欠片が彼の髪に降り落ちた。赤く揺らめく炎の舌を恍然と見つめている彼の頬には落涙の跡こそ見えたが、瞳には傷心の憂いよりも、意志の光が強い瞬きとなって燦々と宿っていた。朧はその傍で彼の気が飽くのを待つしかなかった。
「ヒサギ……」
 黒く焼け爛れた家の一部が風に煽られて裏の崖に落ちていく。音を立てて崩れるそれは、正にヒサギの現実と同じであった。風と炎が母との日常に引導を渡し、末期の声を上げさせる。
「なぁ、姉ちゃん」
「ああ」
「母さんは姉ちゃんと同じ、その……」
「忍びじゃった。あの男と同じ、雷神の宮の忍びじゃ」
 ヒサギは深く頷くと小さな両の手で拳を握り、朧を見据えた。
「俺、俺……! なぁ、姉ちゃん! 俺を姉ちゃんと一緒に連れてってくれ!」
「忍びの道は血生臭そうてお主には勧められん」
「知ってる」
「それにわしらはお主の母御たちと敵対しておる忍びの集団ぞ」
「それでも良い。でも俺は、忍びになりたい! いや、――なるんだ!」
 声音はまだ震えていたが、朧はその真摯さに打たれていた。彼はきっと忍びがどういった生業なのか理解してはいないだろう。この道しかないと勝手に決め込んでいるに違いなかった。
 ヒサギは女の身である朧と違って成長すれば逞しい青年となるだろうから、忍びの道を選ばずとも他に道を切り開く術は幾つもある。それでも、他に身を寄せるよすがのない彼にとってみれば朧こそが最後の頼みの綱なのだ。
 忍びであった母親が安息を見つけようと里を飛び出すも、同郷の忍びによって葬られ、その忍びを敵の己が葬る。葬り葬られ、その飽きぬ阿修羅道の輪廻が、運命が、今度は皮肉にもこの子どもを選ぼうとしている。
(虚しき連鎖じゃ……)
 朧はそう思った。だが、抗えぬ連鎖でもあった。母が里にあってもなくても、彼はいずれ忍びを目指す、と目に見えぬ神々は定められていたのだろうか。
(じゃが、必死に縋り付く幼子の手を誰が払い除けられようか)
 朧は裁付袴で右手を拭き、希うヒサギに手を差し伸べた。
「分かった、ヒサギ。風刻の里はお前を歓迎しよう」
 ヒサギはその手を躊躇なく取ると、力強く立ち上がった。








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