(5)

 天還祭の本祭である天還之儀は神秀宮で行われる。八部族のそれぞれは身支度を整えた後、神官の迎えを待って、あてがわれた宿泊所から会場へ向かう。天還祭は姫神子を伴って、或いは姫神子なしに神官たちのみで各所にて、早朝から執り行われていたが、八部族が招かれているのはその正念場である天還之儀である。これは祭りの殆ど最後と言って良い儀式なので、夕方より行われる。
 神秀宮は禳州に到着した時とは様変わりしており、儀式と宴のために華やかに飾り立てられていた。これは凰都で一晩過ごした宿営施設にも劣らぬ豪勢な飾りつけで、赤色の蝋燭の火が煌々と宮の円柱を照らしている。また、供物も並べられていた。カラ・アットの奉納した四十五頭の鹿――これらは頭、肉、臓物、血液を別々に分けられている――や軟玉をはじめとして、コタズは毛皮、貴重な薬草を、アルトゥン・コイは金工品――特別に目を見張るのは金糸で編んだ鎧だった――を、エイクは剣を、ウシュケは乳を初めとする乳製品を、ブグラはつがいの駱駝を、ブカは非常に大きな水牛の角を奉じており、ブルキュットの海東青は脚を紐で繋がれて飛び辛そうに翼をばさばさと羽ばたかせていた。海東青を除いてはそれぞれが三方に載せられているが、やはり鹿の頭がずらりと入り口に顔を向け、客を迎え入れるのは呪術的で異様な雰囲気があった。キジルの狩った白い鹿は右端に飾られている。
 他にも凰都におわす皇帝が贈った祝いの品や近隣の属国からの貢物があり、キジルが生まれてこのかた初めて目にする豪華な品々が宮を溢れんばかりに置いてある。神饌も同じである。五穀、餅、野菜、果物は美しい円柱に整形され、それぞれの色が幾何学模様を描いていた。真っ白で不純物の取り除かれた塩に白黒の酒、高価な乾物類、清流の湧水も黒漆塗りの供物台の前に供えられている。
 いつもよりも少し華やかに着飾ったキジルたちがそれぞれ指定された席次につくと、供物の隅に控えていた神官たちが楽器を奏じ始めた。遊牧の民の素朴だが深い音色とは違う、もっと飾り立てられた浅瀬で揺らめく波のような音色だとキジルは感じた。
(あれは……)
 音楽隊の傍には厳しい顔をした猛爾元将軍の姿もあった。祭りの担い手たちにより近い席で、兜こそ脱いでいるものの、重そうな銀色の鎧を着たまま胡坐している。佩刀は腰からは抜いていたが、すぐ左に置いてあり、急な事態が起きれば抜刀するつもりでいるのであろうことが周りの誰からも明白であった。彼は皇帝の名代として招かれたようだ。
 暫くすると、供物の奥から祭り用の赤い派手な衣装を身に着けた別の神官たちの一団が現れ、それぞれの配置について国家安泰、五穀豊穣、国民平安の祈祷文を朗じはじめ、更に香炉を持った神官が薫煙をたなびかせながら中央の深紅の絨毯の周りをぐるりと回った。蜜のような甘い香で、薬草独特の鼻につく香りがある。癖のある香なのか、鼻から入ってさっぱりと抜けることがなく、むしろ喉の奥にも頭の中にも甘みが滞留し、次第に酩酊時のまどろみに似た気分になっていく。また、一方では金の盃に満たされた酒を、榊の枝葉で掬い取って辺りを清めらていた。
 ツゥイェはこの日も神官の運ぶ台座に乗せられていた。彼が合図をすると長裙姿の神官たち――彼女たちは配膳役に徹するので日常の襦裙姿である――が舞を踊るように優雅な足取りで膳や酒を運んできた。この日ばかりはいつもの獣食を排した精進料理とは違って、八部族の奉納した本物の羊、鳥、豚、鹿の肉も饗された。
「いやぁ、素晴らしい焼き具合だ!」
「本当に」
 キジルの他にも肉食を待ち望んでいた人間は多く、それぞれ酒を片手に食事を楽しんでいた。
「幾ら上手に肉に見立てたところで、やはり豆は豆だな。肉の弾力と脂身には勝てんよ」
「それに酒ともよくあう」
「そうとも!」
 彼らが話すその先でキジルはアルトゥンを見た。己やユェと出くわしたときとは別人のように朗らかな表情で、やはり周りの皆と同じように肉を食べている。目が合えばもう一度話したいと考えていたが、彼がキジルに視線をくれることはなかった。暫くアルトゥンに視線を送っていたものの、全くの見向きもされないことに諦めて、キジルも羊の脚を頬張った。己から積極的にアルトゥンに話しかけることは、酋長から聞いた話もあって、やり辛かった。
 饗宴も半ばを過ぎた頃、音楽隊が銅鑼を鳴らし、宴場のざわめきが波が引くように静かになった。笙、龍笛が順に旋律を奏で、篳篥が交わると供物の裏手から神官たちが蘇摩香と蘇摩の葉を持って出てきた。神秀宮の壁に沿って円を描いて香を満たしたところで、篳篥が他の楽器を伴って、曲はいよいよ盛り上がりをみせた。
 すると、しゃんと涼やかな鈴の音を引き連れて主役たるユェが宴の席に登場した。額の花鈿はいつもよりも細密に描かれ、口元には同色の朱をちょこんとさしている。結い髪の両端に桂の木の枝を簪にして挿し、さながら鹿の角のようだった。右手には凡そ似合わぬ龍紋に北斗七星をあしらった青緑色の刀身の祝いの直刀を持ち、長いひだのついた袖を廻旋させながら舞い始めると、髪、耳、胸、手足……様々な部分の金の瓔珞が揺れて篳篥の音と共演し、美しい天上の音を加えた。これにユェの凛とした迦陵頻伽然とした美しい歌声が乗れば、どんなに素晴らしいことだろうとキジルは考えたが、今ほど彼女を直視することを躊躇った日もなかった。真っ白な薄絹から彼女の白い四肢が透けて見えるのだ。まだ凹凸のはっきりと定まらない未成熟で無垢な身体が、肌の色を容易に想像出来るまでに浮き出ている。少女らしい陶のような脆さの中に、この時ばかりは高貴で熟した女を感じさせる艶めいた空気を纏っていた。高飛車ともとれる風采は、瀟洒に着飾ったためだけではなく、ユェの胸の裡の源泉から湧き出る天人としての矜持によるものであった。姫神子が姫神子たらんゆえんを一番の衣装として、ユェはこの場に臨んでいるように見えた。
(今日のユェは何だかいつもと違う……)
 キジルは遠慮がちにユェを見たが、恥ずかしさのあまり、ついに視線を外しまった。その繰り返しばかりであった。彼は美しいものを目にしたとき、人はきっと食い入るように見つめるのであろう、と漠然と考えていたが、実際は違った。強烈な力を目の前にしたとき、キジルのような力のない人間は直視に耐えかねるのだった。キジルは酋長をはじめ、他の人間が感嘆の声まで上げながらぼうっと口をあけて見ていられるのが信じられなかった。彼がユェを感じられるとすれば、それは彼女から漂う桃の香りだけであった。
(神々しい……)
 目の前で舞うユェは別人格が乗り移ったかのようだった。はじめて彼女と出会ったときも、彼女の舞を見たときも、キジルは天女のようだと思った。しかし、今宵の彼女は天女ではなかった。神がその身体に降臨している。全身が神秘の力に包まれている。現人神の姫神子とはこのことだったのだ! とキジルは目を逸らした。

  天上平安,天下至福。心想事成,万事如意。
  国家平安,全家至福。国業順利,大吉大利。
  年年有余,歳歳平安。曄国皇帝万歳万歳万万歳。

 ユェは祝いの言葉を音楽隊の奏でる曲に合わせて吟じる。

  国家平安,全家至福。心想事成,万事如意。
  游牧部落子孫万代享福,両国友諠永世長存。
  曄国皇帝万歳万歳万万歳。

 音楽隊とユェの装飾品の鈴の音が交わり、いまや他の一切の音を介入させまいと神秀宮の全てを支配した。絡み合った二匹の龍のような音のつがいは、このまま宮の屋根を突き破り天へ還ってしまいそうなほど、神性を帯びた気となって高らかと神にその存在を誇示している。神秀宮にいる全ての者が鈴の音と合一し、もはやそれ以外の何者も感知出来ぬ錯覚に陥ったとき、だん、と木目を割る大きな音がして音楽は鳴り止んだ。
 中央の黒い供物台にユェが祝いの直刀を突き立てていた。
 どういう由だか分からぬ遊牧民たちの間でざわざわと話し声が聞こえ始めたが、それも束の間のことで、音楽隊が別の曲を奏ではじめると、再び舞い始めたユェに視線が注がれた。今度のユェは刀を持たずにその身一つで舞ってみせた。優雅な、いかにも曄国宮廷人の好みそうな曲調で長い袖をひらりとつまんで口元に添えたり、翻したり、揃えて宙を泳がせてみせると、神秀宮はさながら天上に住む玉帝の宮殿にある回遊庭園の様を呈した。ユェが袖を振るうたびに、そこには小鳥たちが舞い降り、花が咲き、湖面が揺らぎ、舟が波をかき分け、蔓が垂れて水面に同心円を描いた。

  乘上一艘沙棠舟,水面倒映天心月。
  神仙天堂乃良図,天帝居住美宮闕。
  今宵胸懐故園情,順風飛奔大河漢。
  祈求原諒人之愆,祝愿吾人能平安。

 ユェが高らかと歌う。今宵の儀式で、彼女が空の宮殿の天帝に、人々の罪の許しを請い、平安に暮らせるよう願う主旨の詩だったが、その詩の言葉にキジルは動揺を隠せなかった。
(乃良図(ナイラト)? 今確かにナイラトと歌っていた……。ユェもナイラトを知ってるのか?)
 キジルは酋長の言葉を思い出した。
――ナイラトは我々遊牧民の楽園だ。曄ではまた別の名前だろうよ。
 だとすると、ユェの詩には曄の楽園や天界の名が入ることこそ相応しいといえた。
(僕、君にナイラトの話なんてしなかったじゃないか……)
「何で……」
 キジルは呟かざるを得なかった。なぜ曄育ちのユェが遊牧民族の楽園を知り得るのか。世間にとんと疎い彼女が! キジルは固唾を飲んでユェを見張った。ユェは優美な舞を崩さずに、時折キジルに強い視線を送る。しかし、彼女の詩と視線に含まれた、彼女の意味する何か、そして意図する何かは、キジルには一切想像がつかなかった。まさか、これまでもが、ナイラトに願うことまでもが神託とは言うまい。曄の姫神子の天帝が、遊牧民の神であるはずがない!
 曲が終わった。ユェは黒漆の台座の前で跪いた。先の鈴の音に負けず劣らずの、割れんばかりの拍手が神秀宮を包むと、彼女は漸く舞台下の置き去りにした少女らしさを取り戻して無邪気ににこりと微笑んだ。そこに神官の一人が榊の葉の浮いた金の酒盃を持ち、ユェに手渡した。彼女は一気に酒を仰ぐと、キジルの目の前、互いに一歩ずつ歩み寄れば触れられるほどの近くに立ち、彼を見据えた。

  富魅黒馬駒,妾欲乗它奔。
  愿成妻夫棲,恐怕血脉連。

「姫神子様!?」
 神官の一人がユェの詩に被せるようにして叫んだ。表情には驚きが滲み出ており、他の幾人かの神官たちも同様に慌てふためいている。彼女の吟じたこの詩が予定にないものであることが八部族にすら容易に察することができるほどの慌てぶりであった。神官の動揺にか、或いは詩文にかは分からぬが、猛爾元将軍も唖然とようすを見ている。だが、ツゥイェは平静のままであった。ユェの行動も、或いは予測しうる事態であるかのように、ただ平生と同じく見守っていた。
 ユェはゆっくりと詩を詠み、吟じ終えるとその場に崩れ落ちた。
 キジルは恐れた。いまやユェの全てが分からなかった。詩は明らかにキジルに向けられたものだったが、その内容に心当たりがなければ、当然のことながら意味も分からなかった。それに意識を失ったことも心配であった。まさか毒を仰がされたのではないか、と一抹の不安が脳裏を過ぎる。が、その心配はユェが慎ましい胸を上下させたことで解消された。
 からんからんと酒盃が地面に円を描く音をよそに、神官たちは元の落ち着きを取り戻し、すっかり寝息を立てるユェを黒い供物台に横たわらせた。まだ儀式終了の合図はない。とすれば、ここからは彼らの予定された儀式の一幕なのであろう。次に何が起きるのか見守っていたところで、彼女の突き立てた祝いの直刀を残りの神官が抜き、ツゥイェの手に恭しく手渡された。祭祀を取り仕切る神官の長の手に渡った刀はどこか不釣合いに見えた。
 ツゥイェは台座を運ぶ神官に、己の立ち位置を細かく調整させた。ユェの前に来ると、彼はユェをじっと見つめる。真っ白な衣装に黒い髪、ユェは眠る姿も神々しく美しい。簪の先から金細工がゆらゆらと揺れる。ツゥイェの長い白眉に隠れた小さな瞳からは、ユェに対する愛しさは感じられなかった。かといって哀れむでもなく、どこか冷めた印象があった。暫くの空白ののち、彼は両手で刀の柄を握り締め、台座に乗ったまま静かに刀を天に掲げた。小声で祝詞を口早にあげると、老人とは思えぬ勢いで刀を真っ直ぐにおろした。どんっ、と鈍い音がした。一瞬の出来事で、その場の人間は――神官たちを除いて――何が起きたのか皆目見当がつかなかった。刀と供物台を伝って絨毯の赤がじっとりと濡れたように見えたが、甘い香のせいで頭がぼんやりとして、真なのか目の錯覚なのか判断をくだしかねた。それでもひとつ、変えがたい真実があった。
――姫神子の胸に、ユェの胸に祝いの直刀が突き刺さっている。
「ユェ!」
 キジルは思わず腰を上げたが、ユェの傍に駆け寄ることはできなかった。酋長が彼の服の裾を掴んで行かせまいとしていたのだった。宮の隅では猛爾元将軍が何事かと剣を抜かんとしている。
「酋長……!」
「キジル、気持ちは分かるがだめだ。お前まで……」
 酋長が苦い顔をしたのを見つけて、ツゥイェが言った。
「カラ・アットのお二方、いかがなされましたかの」
「ユ――!」
「いいえ、儀式の最中に申し訳ございません。この者、今朝から気分が優れないと言っていたのに、酒の飲みすぎで吐きそうだと申すものですから」
「なるほど、ならば外の空気を吸って来られてはいかがか? 宴はまだ続きますからのう」
「ええ、そうさせていただきます」
「お好きなときに出て、お好きなときに戻られるがよろしい」
 酋長はまるでユェのことがなかったかのように、キジルの口元を手で塞いで言った。同じく、ツゥイェも己の行為が些細なことであるかのように、調子を崩すことはなかった。二人の会話の脇で、神官が剣を胸に刺したまま眠るユェを後方に下げていく。キジルは力なくそれを見送ることしかできなかった。
 ツゥイェが手を二拍させると音楽隊が華やかな、いかにも祝宴に適した音楽を奏でる。
「さあ、祭りはまだ続きますぞ!」
 朗らかな老人の声を合図に、止まっていた参加者の手が動き始める。戸惑いは払拭できぬものの、どうにか祭り本来の華やかな潮流に乗ろうと、各々で食事を再開した。
 キジルはどっさりと腰を下ろして呆然としていた。ユェはどうなったのだろう。彼は考えた。ユェは生きているだろうか。刀で胸を一突きされて生きていられるだろうか。否、一突きに過ぎない。たった一突きでは死なぬかも知れぬ。歴戦の猛者は男でも女でも体に無数の傷を抱いているではないか。胸を一突きされたくらい大したことないはずだ。キジルは動揺のあまり現実を見失っていた。考えれば考えるほどに思考の糸が絡まり、もはや思考とは言えぬただの糸くずとなっていく。その間にも宴は進み、神官が新たな膳を運んできた。朱塗りの膳に載った土器(かわらけ)に神官たちが酒を注ぐ。
「ここに曄と八部族連合の兄弟の契りを改めて結びましょう。まずは一献」
 ツゥイェの輿は黒い供物台の前にあった。彼は高らかと土器を掲げ、くいっと一気に喉にを傾けた。ツゥイェが土器を地面に割る頃には他の皆々も酒を仰いでいた。同様に呑んでは土器を地面に叩きつけたが、キジルは酒を呑む気にはなれず、ぼんやりと手の内で酒に反射した蝋燭の光が揺れるのを眺めていた。その前に、神官から新たな皿が出される。ふわりと鼻に果実のような甘い香りが漂う。
 それはキジルの親指の先ほどもない小さな肉塊だった。湯通しもしていなければ、焼いているでもない、生肉を四角く切り分けたものだった。
「白い鹿でございます」
 ツゥイェが皆に勧めた。
「神人共食と申しまして、神饌のお下がりを頂くことで新たな生命力を得ることができますので、ささ、どうぞ」
 キジルは目を疑った。白い鹿の肉のわけがあるはずがない。深い赤色はまだ温度すら感じる。白い鹿は他の鹿とともに既に腑分けされている。キジルの狩った白い鹿の肉は目の前に供えてあるではないか! だとすれば、これは一体何に由来するものか。
「カラ・アットの少年には特別に腎を。腎は精気を作り溜めると言います。一番手の名誉への賞賛として我々からの贈り物でございます」
「――!」
 キジルは土器も膳もひっくり返して立ち上がった。もはやツゥイェの朗らか然とした笑みは、得体の知れない老人の不気味な悪意としかとれなかった。
「ど、どうしたんだ、キジル……」
 酋長が心配そうにキジルの顔を仰ぐ。
「すみません……。すみません……」
 キジルは突然、腰飾りの小刀を取り出し、ツゥイェの喉をめがけた。刀を握った掌が燃えるように熱く、爪先から血が滲み出ていた。キジルは泣いていた。わなわなと、こみ上げる怒りが掌を震わせる。
 この祭祀は曄と八部族連合のためだといったが、それは嘘だ。真相は分からずとも、一つだけはっきりとしたことがあった。
(ユェは死んだ……!)
 夢ではなかった。
(殺されたんだ!)
「取り押さえろ!」
 猛爾元将軍が叫びながら、自ら宝剣を抜いてキジルの前に躍り出る。元より、帝国の一将に敵うとは思わなかった。ただ、ユェを殺した張本人であるツゥイェに一矢報いたかったが、それを完遂できそうにないことが悔しかった。キジルは覚悟して目を瞑った。白刃が頭上を閃く。と共に、白い光が神秀宮を覆った。
 大雷が神秀宮に落ちた。
 雷の落ちた宮は、蝋燭が消え、暗闇に満たされた。キジルは耳に将軍の怯む声を聞き、
恐る恐る目を開く。すると、白い光の塊がキジルの前に立っていた。
――守られている。
 キジルには白い光の塊が身を挺して己を庇っているように感じた。
「白い……鹿?」
 光の塊は四肢を持つ獣の形をしていた。キジルは直感的に、それは鹿だと思った。鹿のような白光の獣はキジルに振り返ると鼻先で神秀宮の入り口を示す。彼はハッとした。将軍たちの隙をつくのは今しかなかった。
 振り返れば禳州の森は不気味であった。来た時には地上の楽園にも見えた神秘的で清浄な森は、いまや薄暗い、虚構を張り巡らした恐ろしい檻にしか見えなかった。彼は一刻も早くおぞましい禳州の地を出たくて仕方がなかった。早く草原に戻ってイェシルに会いたいと願う。だが、草原に戻りイェシルに会ったところで、今宵行われた祭りの結果が覆ることはない。
(ユェ、ユェ……。何でこんなことに)
 行くあてのないキジルは宿営所に駆け込むと乱暴に扉を開いた。
(イェシル叔父さんのところに帰りたい)
 彼は己の荷に伏して胸から這い上がる悪寒に必死に耐えていた。ふと、手元に紙切れが触れてキジルはイェシルから届いた手紙を思い出した。
(手紙……)
 それはすっかり読み忘れていたものだった。イェシルからの手紙を読めば少しは安心するだろうか。キジルは震える指先で乱雑に封蝋をきり、蔀戸の下に移動する。月明かりがうっすらと紙面を照らす。
『――キジルへ。この手紙は読んだら必ず燃やしてくれ。誓ってお願いする。また、この手紙が天還之儀と呼ばれる宵の祭りの前に読まれることを願う』
 ただならぬ雰囲気の冒頭にキジルはがっかりした。イェシルならば長旅で疲れたキジルの心身に何らかの労いの言葉をかけてくれると期待していたが、それに反してイェシルの文面は緊張の面持ちを見せている。紙面からは心身の疲労の心配よりも不安や恐怖、そういった感情が滲み出ている。
 キジルはさっと目を通したが、その内容に愕然とした。一度だけでは信じられず、二度目を通した後、すぐさま蝋燭に火を灯す。人に見つからぬよう、急ぎ燃やしてしまわなくてはならぬ。彼は焦った。蝋燭の火が手紙を燃やすのが百劫の長さに感じられる。早く燃え尽きてしまえ。キジルは全てが塵になるのを、息を殺して見つめた。
 手紙には恐ろしいことが書いてあった。イェシルの筆は彼に似つかわしくない、いかにも焦って書いた乱雑な文字で、火急に記したことは明白だった。イェシルの文字には彼の焦りからか、不明瞭な、叔父にしか分からぬ心境描写も多かったが、それでも確かなことは、早急に対処せねばならぬ、ということであった。ここには父が叔父に託したこの天還祭の真実が記されてあった。
『――シャマルは亡くなる前、俺に一筆寄こした。そこには天還祭がいかに恐ろしい儀式であるかが書かれていた。シャマルは自分の命が狙われていることを知っていたようだった。きっとシャマルは真実を知って逃亡したのだが、途中、曄の密偵に殺されたのだと思う。落ち着いていられないと思うが、どうか正常な判断をするように、いいな、キジル。
 お前は信じられないかもしれないが、この天還祭は曄の使者により略奪された者が執り行っている。まずは姫神子、それとその世話役の老人だ。それぞれ違う部族から連れ去られてきて、時間をかけて曄が派遣した神官に洗脳される。世話役の老人はこの儀式で一番の貢物をした部族から輩出され、逃げられんように両脚を切り落とされる。姫神子は二番目の部族のうち、儀式参加者の血縁者より、適齢の幼い少女が選ばれる。血縁者が居ない場合はその最も身近な家族からやはり幼い少女が選ばれる。
 シャマルは当時儀式の二番手の栄誉を賜って天還祭に行ったが、その時の世話役の老人が父のコタズ族の友人にそっくりなことに気付いて調べたらしい。すると、彼は何度か前の儀式で一番手に選ばれて、そのまま行方知れずとなっていたそうだ。そして同じ頃、アルトゥン・コイの男が、子どもが攫われたと言って精神を病んだことが噂になっていた。そのコイの男は金工細工で素晴らしい腕を持っていて界隈では有名だったが、子を失った後に細工師をやめてしまったので、コイの評判ががくんとさがったことで知られていた。シャマルは男が言っていた誘拐された子どもの特徴に、姫神子がそのまま当てはまることに気付いたんだ。だから、自分が二番手に選ばれた今、もしかすると今度はカラ・アットの娘が連れ攫われるのではと恐れていた。おおっぴらに部族に公表すれば、曄からの攻撃を受けかねないと知って、俺にめぼしい娘たちを出来るだけ毎日、遠くに行かせるように指示した。しかし、お前も知っての通り、曄の追随の手からうまく逃れられず、アイたちは戻ってこなかったし、他の部族でも似たような年ごろの子どもが同時期に四人消えている。略奪されたとも姫神子になったとも言い切れないし、俺は実際に見たわけではないが、兄が命を落としてまで俺に伝えた言葉を、きっと真実であろうと信じたい。俺はお前に可能性だけで話をしているが、どうかお前がこれを読んだなら、曄の気付かないうちにどこぞへと逃げて欲しい。お前の命が心配なんだ』
(だから叔父さんは――)
 キジルはイェシルが手柄を譲ってくれと願い出たあの夜の日を思い出した。空の銀砂が美しかった。全てが己を祝福していると信じていた。その中でイェシルだけがこのおぞましい儀式の真実を胸に秘め、起こりうる恐怖からキジルを守ろうとしたのに、己は欲望と名誉のために彼の厚意を無碍にした。
 次はお前が狙われる可能性がある。イェシルはそう言っているのだ。あの眼光の奇妙な老人が元は遊牧の民だと。アルトゥンはキジルのことを一番手だと言っていた。即ち、キジルは次のツゥイェ候補なのだ。曄に捕まれば脚を切り落とされて世話役として監禁されてしまう。
 キジルは蝋燭を消し、燃えかすを下衣の衣嚢に詰め込むと、荷の中から先ほどとは別の、もっと実用的な小刀だけを取り出して外に飛び出た。周囲に人影がないか確認すると、禳州の出口へと向かう。今ならば逃げられる。今しかない。今ならば、まだ皆神秀宮に参集してキジルや雷のことで混乱していて妨害も少ないはずだ。キジルは意を決した。己が逃げることによって誰かが己の代わりに新たな贄として捕まるかも知れぬし、部族に何らかの処罰や報復が科されるかも知れなかった。だが、何十年か後に今のツゥイェと同じように遊牧民の誇りを、人間の誇りを忘れ、獣を屠るように平然とした顔で、それだけを愉楽として少女の胸に刀を突き立てることも、その義務を負わされることも耐え難かった。
 キジルは駆けた。思えば草原を出て以来、久々に己の足で疾走している。ユェの後をついて歩いたおかげで、いまや禳州の出入り口までの道順は暗くとも迷うことはなかった。
(ユェ。ごめん。もっと早く叔父さんからの手紙を読んでいれば……)
 或いはユェを連れて逃げられただろうか。その疑問は容易に肯定できるものではなかったが、失敗する可能性が高くとも、同じ黄泉路を辿るはめになるのであれば、天運に賭けることもできただろう。
(ごめん……。僕だけ逃げて、ごめん)
 禳州の森が途切れて黄土の荒地が見えた。黄土の荒地は広々として遮るものがない。ここを一気に抜けねばならない。弓を射るのは得手でも、弓を避けることまでは得意ではない。見つからぬように一気に駆け抜けるのだ。キジルは空を仰いだ。月が丸々とし、黙したまま地面に光を落としている。彼は月の昇る方向へ行くと決めた。
「待てよ」
「!」
 背後から声を掛けられてキジルは動きを止める。相手が攻撃をしかける意思のないことを認めると、彼はゆっくりと振り返った。
「……アルトゥン」
「逃げるつもりだな」
 アルトゥンの眼光は鋭い。厳しく当たられた記憶が新しいために、責めたてられているようにさえ感じた。
「密告するかい」
 アルトゥンがキジルを追ってきたことは明白だった。彼に限って何もなしにこの場に姿を現すことは考えられなかった。天還祭を恨む彼は己の味方につくとも、曄側の味方につくともよらなかった。彼はキジルの言葉を鼻で笑った。
「俺の言い分が正しいと分かっただろう」
 アルトゥンはそれだけが言いたかったようであった。否、彼にとってそれは至極重要だった。誰も認めようとしなかった彼の憶測、或いは妄想とすら思われていたことが、キジルが是と一言いうだけで変えがたい真実となる。アルトゥンの憶測はイェシルの手紙から察すると真実により近いと考えられる。だが、キジルにはどうでも良いことだ。
「言いたいことがそれだけなら僕はもう行く」
 輝かしい真実はキジルの胸の闇を払えない。むしろその光は彼の裡に湧き出た黒霧をより深く、散らすことができなくなるほどに、その身に刻むだけに過ぎない。キジルが背を向けるとアルトゥンは駆け寄って肩を掴んだ。
「だから待てって!」
「一体何だって言うんだ!」
「これを……」
 語気を強めたキジルに、アルトゥンは懐から深い青色の美しい石を取り出した。石は大きく欠けていて首飾りに加工されている。
「ラズワルド石?」
「俺の首飾りだ。ブルキュットにこの石の切り口と合う石を持った子どもがいる」
「もしかして……」
「俺の妹だ。ミウェという茶毛の五つの子どもだ」
 キジルはアルトゥンから石を受け取った。アルトゥンは全てを言わなかったが、今のキジルにならば理解ができた。アルトゥンは二番手の名誉を賜ったのだ。石を受け取るということはアルトゥンに返事をすることになり、それは大禍の引き金となりえる。
「僕は逃げる。その前に君に一つ聞きたい」
「ああ」
「君は妹の命のせいでブルキュットが滅びてしまったとしてもいいのかい? それでも、妹を助けたい?」
「二言はない。俺は利己的な男だ。部族に恩はあるが、最後の家族であるミウェまでくだらぬ祭りに殺されてたまるものか」
 アルトゥンの答えは早かった。
「……分かった。なら、恨むなら曄と僕を。カラ・アットは恨まないと約束してほしい」
「当然だ。俺はお前を利用するだけだ」
 キジルは今度こそ背を向けて黄土へ向かった。アルトゥンがピィと口笛を吹いた。
「連れて行け! ボランという」
 背後より一匹の黒馬が駆けてきた。アルトゥンの馬にしては瞳の潤んだ優しそうな馬だった。黒いことと瞳の優しいこと以外に特徴のない馬だったが、乗れば速く、逞しかった。砂を駆る足音も密やかな、今宵にもってこいの名馬だった。キジルは礼を言うこともなく、二度と後ろも振り向かなかった。
(ユェに哈蜜瓜を食べさせたかったな……)
 キジルはラズワルド石の首飾りをかけると、ふと、哈蜜瓜の約束を嘘でもいいからとりつけておけばよかったと思った。愚かな考えだったが、どうしてもそれが悔しく思った。そして、彼はひたすらに、だた、月の方角へ向かって一心に駆った。草原へ。

 数ヵ月後、ブルキュット族は帝国・曄の姫神子を隠匿したことで、叛逆罪のかどにより誅され、滅したとの報が草原を駆け抜けた。
 八部族連合は一つの連盟者を失った。曄滅亡の十年前に遡る。



 
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