(4)

 何者かに尾行されていることに気付いたのは、帰路も半ばになってからであった。いつから尾行されていたのかは見当がつかなかった。キジルは初め、ユェを心配した神官の誰かが彼の後を着けているのだと考えていたが、そうではないらしい。ユェが去った後も、その何者かは一定の距離を保ってキジルの後を着けて来るので、キジルは不気味に思った。
 空は依然として高かったので、キジルが勇気を持って振り返りさえすれば、その正体は陽の元に晒されるはずである。ユェの居ない今となっては、万が一何者かが襲ってきたとしても、傷付くのは己の身のみだ。彼は意を決してくるりを身を翻した。
「君!」
 呼びかけに姿を現したのはブルキュット族の少年だった。つい先程、そそくさと逃げ去ったあの少年だ。彼は相変わらず容貌とは正反対に、亡霊のような青い顔に怯えの色を浮かべており、口を噤んだまま藪の中に佇んでいる。
「どうして後をつけたりなんかするんだい?」
 キジルはだんまりを貫く少年に訊ねた。不気味に抱いていた不安も正体を見てしまえば霧散したが、どうして逃げるように消えていった彼が己を尾行していたのか些か妙に感じた。尾行せずともキジルは彼と語らってみたいと考えている。それに対し、捉まるまいと心に決めたのは彼ではないか。
 少年は悪霊に憑かれた人間のように茫然とした歩みでキジルに近寄った。
「カラ・アットの一番手、お前はよくもあの姫神子と一緒に居ることが出来るな」
 彼は酷く忌々しげで、言葉の表面にも不快感が顕わになっていた。宿敵を思って苦虫を噛み潰すような表情のまま、少年はキジルとほんの一間程しか離れぬまでに近付いた。
「ユェのこと? 彼女はいい子だよ。君が思っているのとは違う」
 少年がユェを快く思っていないのは一目瞭然だった。その由までは分からずとも、キジルは大切な人に嫌悪を抱いては欲しくなかった。
「姫神子がどこから来たのか知らないのか」
 すると少年は唐突に問うた。彼の口の端に笑みが宿る。キジルは不快が過ぎると、気持ちとは裏腹に笑みを宿す人種が居ることを知っている。彼もその一人のようだった。それよりも、彼の言葉には含みがあった。彼はキジルの知らぬ何事かを確信を持って知っているようだった。こ馬鹿にした言い草よりも、彼の知っている“何事か”にキジルは警戒した。ユェを疑ってはならぬ。少年の言葉の裏を勘繰ってはならぬ。むやみに証拠のないことを信用してはならぬ。とキジルの頭の中で警鐘が鳴った。しかし、同時に胸の鼓動が激しくなった。秘められた隠し事を、瘡蓋に爪をあてるように、剥いでしまいたい。キジルは欲求を胸の裡に蓋しながら、少年の挑発に乗るまいと抑え付けた。
「どういうことだ。ユェはここで生まれたんだろう?」
「なら母親は? 父は? 兄弟は?」
「家族は居ないといっていたよ。その言葉に嘘はないと思う」
 ユェを信じたく思い、キジルは彼女の話したことを素直に口にした。
「家族は居ない、な。あんた暢気だな。人間が誰の胎も借りずに独りでに出てこられるわけないだろう?」
 少年はせせら笑った。彼は、キジルが彼女のことをもっと知りたく願っていることを察知しているようだった。彼は含みを持たせるが、本当に知っていることは安易に口には出さない。そうすることでキジルの苛立ちを煽ろうとしていた。
「何が言いたい」
「あんたは姫神子がどこかの家族から奪われてきたって考えたことないのか?」
「奪われた……?」
「分からないならいいさ」
 キジルには見当がつかなかった。彼の言わんとすることと、己の思考に乖離が見られた。内陸の民が海の民に大洋のあれこれを話されているかのように、とんと見当がつかなかったのだ。家族から奪われたって? 一体どこでどう奪うのか、帝国の祭事にそのような略奪が行われるのか、まさか。キジルには妄想話にしか聞こえなかった。
「いずれ穢れる神子だ。いや、周囲の欲望の眼差しによって既に穢れているといっても過言じゃないな」
だが、最後の一言は遂に気長のキジルの怒りに火を点けた。
「訂正してもらおう、ユェは穢れてなどいない!」
「はっ、どうかな。あいつは傍付きの足なしジジイの慰みものになるのを待つだけの女だ」
「でたらめを!」
「でたらめだと思うなら調べてみるがいい。あの爺は姫神子を取って食らうのだけを生甲斐に今まで祭事に尽くしてきたんだからな! 俺たちが姫神子に穢れをうつす? 馬鹿な、姫神子自体が穢れを寄せ付けるんだ! この祭事自体が穢れた思想で作り上げられたまがいものだ!」
 少年の背後には憎しみが見えた。キジルには量りようのない、深く暗い夜に似た曇天のように重苦しい憎しみだ。黒い憎しみが少年の胸の裡を腐食して清浄なる心を怒りの錆で埋め尽くしている。彼は鮮烈な怒りを放ちながら、ぼろぼろと錆を零している。故に心が侵食されて痛んでいる。
 彼の黒く重い憎悪を、キジルは受け止めることは出来なかった。何故彼がこうまでも天還祭を嫌うようになったのか、ついに本人の口から説明されぬままだ。しかし、一つ確かなことは、彼の儀式の知識は――例え偏ったものだとしても――キジルよりも酋長よりも、恐らく八部族の誰よりも詳しいということである。



「アルトゥンだな」
 宿営所で酋長は、困ったものだ、と溜息を吐いた。キジルは夕餉の精進料理を緩慢に口へ運びながら、件の少年の話を酋長にしていた。
 アルトゥン。ブルキュットの少年で、見た目こそキジルよりも一つ二つ幼く見えるが、実際は一つ年上である。此度はブルキュット族の朝貢である海東青の逸品を育てたとして、天還祭に招待された。海東青は白鳥や雁を狩ることが出来る小型の雄鷹で、曄の皇帝は代々この雄鷹を愛してきた。過去に海東青を巡って流血の争いを繰り広げたこともあるほどで、よって、祭り毎に貢がれるこの鷹こそ曄国にとっては八部族からの最大の贈り物である。
 キジルの父が過去に白い鹿を射たように、アルトゥンの家族も歴代この朝貢を育てるのに貢献してきた名匠であった。
「彼は自身に起きた不幸をどうも天還祭のせいにしている節があってな」
「どういうことです?」
「アルトゥンは幼い頃に二度、親しい人を略奪されているんだ」
 アルトゥンが失ったのは彼の実母と従姉だった。
 当時は東方の大部族の長が暗殺された時期で、非常に大きな纏まった部族が各々の主張によって細分化を繰り返していた。彼らは曄の傘下に加わる者と己の独立した権利を主張する者らで混乱しており、中には八部族の領域を荒らす無法者の一団もあった。八部族は連盟して東方を警戒していたが、殊にブルキュットは金になる海東青のために、しばしば新たな独立部族とは名ばかりの無法者たちに侵略されることがあった。
 その襲撃がこともあろうに、天還祭の最中を狙って行われた。部族の男たちは老人を除いてことごとく曄へ見物に出かけていた。遊牧の部族は曄の女性と違い弓馬の扱いに長けており、幼いアルトゥンの母親も例に漏れなかったが、仲間を庇って負傷したのが切欠で東方部族に略奪されてしまった。男たちが故郷に戻った頃には、ブルキュットの人口は三分の二に減ってしまっていた。
 また、アルトゥンが七つになる直前のこと、今上帝が践祚された。それに伴い年号を改元、本来九年に一度の天還祭が新帝のもと、臨時で執り行われる運びとなった。先の祭りの襲撃を受けて、此度は代表を立て、天還祭に参加することとなった。あのような憂き目に再び遭わぬためと八部族が皇帝に願ったのが許されたのだった。今度の天還祭はこのまま何事もなく終わると皆が安堵していたが、旅団が帰路につき、一両日中に故郷の土を踏むであろうその時に事件は起きた。曄の使者が旅団帰郷の知らせを伝言した夜、アルトゥンの従姉が姿を消した。薬効のある花を摘みに宿営所近くの草むらに入ったっきり帰ってこないのだ。彼女はアルトゥンよりも六つ年長だったが、将来は酋長の血縁に近いアルトゥンに嫁すことが決まっていた。アルトゥンは子どもながらに懸命に捜索を願い、聞き届けられて近隣の部族の助力も得て探したが、ある時はたと捜索の手が止んだ。それから彼がどう言おうと大人はぴくりとも動こうとしなかった。
「アルトゥンは母親の時は曄が故意に男どもが居らぬことを東方部族に密告したと考えているし、従姉の捜索が中断されたのも曄が圧力をかけてきたのだと考えておる」
「でもそれは単なる推測じゃないのですか。天還祭とは関係ない」
「そう、恐らく関係ないだろう。従姉については死んだことをアルトゥンに知らせなかったとも考えられるしな。しかしな、どちらも天還祭の時期と被っておるのは事実だ。だから疎ましく思うんだろう。“おねしょと寝冷えは西瓜のしわざ”というやつだよ」
「……西瓜」
 キジルが苦い顔をすると、酋長は咳払いをして、
「例えの話だ。そんな顔するな。どちらも直前に食べた西瓜のしわざに違いないと決めつけてしまうことだ。まあ、あまり気にしないことだ」
 キジルは殆ど納得していたが、どうにも腑に落ちない点があった。アルトゥンが天還祭の最中に大切な人間を失くし、それを恨んでいることは分かるが、それらは彼にとって両方とも天還祭のしわざなのだ。決して東方部族や無法者、或いは曄の陰謀のせいではない。恨みの矛先は一貫して天還祭に向いており、曄をはじめとする他に矛先が向けられることはない。幼い彼が訳を知らずして祭りのしわざにするのは想像に難くないが、この誤解を成人した今も頑なに、まるで彼自身を戒める縄のように解こうとしないのは愚かではないか。とキジルは考えたが、強情そうな瞳の光を思い返し、人の禍根はそう簡単に溶解するものでもないかもしれぬと改めたのだった。
「……そうだ!」
 酋長は無言のキジルを慰めると、思い出したように自身の荷を探る。その中からまだくたびれていない紙の束をキジルに差し出した。
「イェシルからの文が今日届いてな。お前に渡しておこう」
「イェシル叔父さんから? 有難うございます」
 キジルは薄い紙の束を受け取り、膝の上に置いた。手紙だ。
「本当に心配性の男だな。お前が可愛くて仕方ない」
 酋長が笑うのに合わせてキジルも愛想笑いをした。イェシルのことだからきっと酋長の言う通り健康はどうか、道中危険はないかという手紙だろう。明日が終われば帰路に着くというのに、本当に心配性だ。成人してもイェシルにとっては可愛い甥であり、人生においては経験の浅い若輩なのだ。
 キジルは叔父を脳裏に浮かべて心がほんのり温まる思いがしたが、今は手紙を読む気にはなれなかった。
(ごめん、叔父さん。明日、読もう……)
 キジルは封蝋を指でなぞると、己の少ない荷の中に手紙を入れ、再びアルトゥンの言葉と彼の心境に思いを馳せた。この夜はそのことでいっぱいだった。



――倶利伽羅刀、倶利伽羅刀……。
 ユェは朱色の寝台で薄絹に身を包みながらぼんやりと横たわっていた。昼間に遊び、夜に勤めたせいで疲労し、半ば眠りかけていた。神官たちが次の儀式に向け準備をする間の、束の間の休息で、彼女は寝台の枕元に祀られた祝いの直刀に念じた。
(どうか儀式が終わっても、キジルを白き鹿の恩恵で満たしてくれ)
 刀は、当然ながら何も答えることはなかった。
(お願いじゃ)
蝋燭に照り付けられた刀身も、半眼のユェの瞳には映らなかった。
 うつらうつらと舟を漕ぎながら、ユェは夢を見ていた。乳白色の川に一人で舟に乗っている夢だ。不思議なことに晴れているのか曇っているのか、それとも霞んでいるのか分からない。ただ雨が降っていないことは確かで、空色は翡翠色をしていた。川中には若々しいナギの木が生い茂った浮島が点々と存在している。彼女が櫂を操ると、現実ではあり得ぬことだが、瞬く間に舟が流れていく。流れは恐ろしいものでも嫌なものでもなかったが、ただ、彼女から周囲を遊覧する機会を奪っていった。
(もう少し、もう少し……)
 彼女は櫂を操る手を止めるが、舟はもう止まることはなかった。
(ああ、もう少し居りたいというのに)
 どうにもならない事態をみて、ユェは諦めて腰を下ろした。こうなれば、舟を漕ぐなどもうどうでも良い、見られる光景の全てをこのまなこに焼き付けてやろう。そう決めた。瞬間、浮島の茂みから白いものがひゅんと隣の島に跳躍した。
(あれは何!)
 ユェは身を乗り出した。しかし、白い何かは島の茂みに隠れて見えない。ただ、ユェの方を窺っているようだったので、彼女は更に身を乗り出した。舟がぐらりと傾いた。
「な、何?」
 ゆらゆらと不安定に傾く体に、ユェははっとして目を開いた。目の前にはツゥイェと神官たち数名が居る。隣にも女官がおり、彼女の肩を揺さぶっていた。
「姫神子様、どうぞ、クラの儀式の準備が整いましてございます」
 ツゥイェの小さな瞳が微笑みを称えていた。ユェは我に返って辺りを眺めたが、朱色の寝台の上で倶利伽羅の彫られた刀が相も変わらず銀の静かな光を纏っていた。そうだ、寝ていたのだ、と彼女が気付くまでにあまり時間はかからなかった。
「御苦労、参ろうぞ」
 気持ちを切り替えたユェは、気高く、何事にも動じぬ様子で返事をすると、すっくと立ち上がって背筋を正した。紅の羽織を着て、姫神子の務めを果さんが為、銀砂の散らばる漆黒の夜闇に出かけていった。


 夏虫が羽音を立てながら先を歩く神官たちの灯火にまとわりついた。火の周りを飛びまわっては羽を焼き、夜闇に姿をすっと消していく。
 ユェは台座に乗ったツゥイェの後ろを輿で運ばれていた。外を移動する手段は殆どが輿だ。輿の揺れは疲れる。ユェは輿が好きではない。輿では地面を踏みしめられぬ。踏めぬのでは土や草を足の裏で感じることが出来ない。彼女はそれがたまらなく嫌であった。だから勤めのない時間にはうんと裸足で大地を踏みしめた。祭りとはその源を辿れば生命のために祈り、行われるものなのに、その生命を感じられない輿での移動は気が進まなかった。
(クラの儀式は命が誕生することを表す大事な儀式なのに……)
 ユェは肘掛で頬杖をつきながら外を眺めた。暗い。全てが闇に沈む暗さだ。虫の羽音もついぞ聞こえなくなった。それでも、己を運ぶ人間、潜む虫たち、生い茂る木々は幻ではなく、確かに存在している。命はそこかしこに芽吹いている。ユェは瞑目しながら彼女の知る全ての命に思いを馳せていた。
 突然輿が止まった。
「姫神子様」
「許す」
「申し上げます。クラの祭壇に到着しました」
 ユェに口を利くのを許された神官の一人が恭しく手を差し伸べるが、彼女はそれを取らずに独りで輿を降りた。土のしっとりとした感触は沓の厚い底に阻まれて感じられない。
「こちらへ」
 ツゥイェは台座に乗せられたままだった。彼は手に小さな松明を持ち、神官に指示を出しながらユェを先導する。ツゥイェの手に持った灯りが祭壇を照らすと、そこには青々としたケヤキの巨木があった。祭壇とはこのケヤキの神木そのものであった。注連縄は掛けられてはいない。橙の光に照らし出され、幹の皮をぬらぬらと輝かせているそれはまるで龍の鱗のようで、ユェは書物でしか知りえぬ獣の体に思いを馳せた。天へ駆け上がるケヤキの龍の体はきっと蛇の体のように硬質でひんやり冷たいのだろうと想像力を働かせ、幹にそっと触れるも、指先からは目立った温度は感じられなかった。その代わり、心の臓が脈打つような振動がどくんと手に返ってきた。
 ユェがケヤキの神木の根に掘られた階段を数段下りると、小さな小屋ほどの広さを持った自然の木洞が広がっていた。闇が深く、灯りなしには立ち位置すら曖昧に感じられて不安を煽る場所だ。その奥に土の重々しい扉があり、ツゥイェが指示を出すと神官が三人がかりで引き開けた。
「ささ、こちらへ」
 ツゥイェは小さな台座に移り乗り、彼を運ぶ人数は半分の二人となった。
「お足元にお気を付けください」
 扉の奥には更に階段が続いていた。台座のツゥイェは神官に運ばれながら台の上を前後に滑るようにして揺れている。台から落ちずに器用なこと、とユェはツゥイェの体勢がいかに均衡であるか、いかに神官たちの運搬技術が巧みであるか感心する。それも束の間、今度は長い廊下に出る。闇はいよいよユェの世界を支配して、もはや後戻りが出来ない深みまで来てしまった。この禳州はユェが幼い頃から育った場所で、あらゆるところを探検しつくしたとばかり思っていたのに、このケヤキの地下道のことは全く知りもしなかった。ただ、神秘的な力を持つ大きな古木があるとしか考えたことがなかった。
「姫神子、しばしお待ちくだされ」
 廊下を少し進んだところでユェはツゥイェに静止された。彼女は是、と答えると暫く灯りが照らす土壁を凝視した。夜目が利かず、どうにも辺りの様子を把握することが出来なかったが、次の瞬間、彼女――正確には彼女たち――を囲むようにしてうっすらと蝋燭の火が点った。
「まあ……!」
 ユェは弱々しい蝋燭の光を辿って周囲を一望する。廊下だとばかり思っていた場所は三歩(さんぶ)ほどの大きさの部屋になっており、中央に大きな台が設けられている。人間が三人は並べるような台に白い絹が敷かれ、さながら広々とした床のようだったが、台それ自体はこの場に自然発生した岩であった。それをこの祭壇を掘るときに正方形に整形したのだろう。
「姫神子様」
 ツゥイェは台の真前で辺りをきょろきょろと眺めるユェに声を掛けた。
「姫神子様はこちらで横におなりください」
「分かった。横になれば良いのじゃな」
「はい。それと事前に儀式についてご説明を。この儀式は再生の儀式でございます」
「それくらい妾も知っておるぞ」
 ユェは台の中央で半身を起こして言ったが、ツゥイェは、念のためにもう一度おさらいをするのです、と続ける。
「このクラの儀式はいかなるときも、天還之儀の秘儀伝承よりも口を堅く閉ざさねばなりません」
「承知しておる」
「秘儀ゆえ」
「秘儀ゆえな」
「いかにも」
「ならば以上で宜しいか」
「いいえ、もうひとつ」
 早く始めよとせっかちに命ずるユェに、ツゥイェは普段と変らぬおっとりした口調で続ける。
「何じゃ」
「このクラの儀式は姫神子様の姫神子たる証を正さなければなりませぬ。儀式自体は我らにお任せください。暗闇に惑わされ恐れを抱くこともございましょうが、どうか姫神子様に於かれましては天の帝の加護がございますことをお忘れなきよう」
「妾は姫神子じゃ。天の帝に証明することなど容易よ」
「それはたのもしゅうございますな」
 ツゥイェは細い眼を吊り上げてほほっと笑った。本心から笑っているようで、ユェは生まれて初めてこの老人の腹の底からの笑いを見た気がした。
「儀式が終わりましたら、姫神子様は奥の扉の先にございます水路を辿って水源を拝み、その後に地上に出られますよう。もう一度地上に己の力で出る、それが再び生れ落ちることとなります」
 ユェは往路とは反対の壁を見る。小さな木製の扉が土壁にひっそりとついている。この先に水路があるのか、と彼女は意外に思った。この先もずっと暗闇と土壁が続いていくと考えていたのだ。
(儀式の最中に水の音を辿ってみようか)
「その後はどうする」
「それで朝までご休憩でございます。ご自身の寝所にお戻りください」
「あいわかったぞ」
「それでははじめましょう」
 ユェが相槌を打つと神官たちがツゥイェを台座から降ろし、彼女の居る台に置いた。ツゥイェは器用に膝から上の足を用いてユェに近づいて来る。同時に神官たちは壁面の蝋燭に向かい、それを懐から取り出した金属の帽子のようなもので消し去った。
――闇が支配した。
 香が焚きこめられ、花の蜜に似た粘着質な甘い香りが部屋に充満した。
 ユェは体のあらゆるところを触り検められた。誰かが覆いかぶさって重く感じることも、くすぐったく感じることも少しの痛みを伴うこともあったが、心は水路に向いていた。早く水路を通って生まれ出でたい。土臭い地下ではなく、耳心地の良い水源の音を聞きたい。そう考えながら彼女は花瞼を閉じた。
(水の音、聞こえようか)
 さらさらと微かに水の流れが聞こえてくる気がする。爽やかな心地にさせる水音と香の甘ったるい香りがユェの意識を深みへと誘った。



 こつこつと蔀戸を礫が叩いた。起床時であれば取り立てるまでもない音であったが、まどろみの深淵から引きずりあげられたとなって、キジルは少々不快に感じた。頭から布を被ってみるものの、音の存在に気付いた後ではどうしても無視することが出来なかった。酋長は毎晩のように鼾をかいていたが、今夜も同様であった。酋長の耳障りな鼾声から逃れて無心で入眠するまでには時間がかかるというのに、今夜は二度もその作業をしなくてはならない。しかも夜が明ければ天還之儀である。天還祭の要となる、国を挙げての重要な儀式とユェが舞う中で舟を漕ぐわけにはいかない。
 キジルは床からそろっと抜け出すと、物音を立てぬように宿泊所の外に出た。キネズミや鳥が礫を落としているのであれば、追い払ってやろうと考えていたが、玄関から蔀戸の方へ視線をやると、白い衣がふわりと裾を靡かせた。
(亡霊……!)
 彼はぎくりとして身構えた。だが、よく目を凝らしてみると、それは白絹を纏ったユェであった。
「キジル、眠っておったかの」
 ユェはとろんとして潤った瞳をしている。キジルは拍子抜けして。警戒心を解いた。
「ユェだったのか」
「これか? 一か八か、気付かないでも良しと思うてな」
 ユェはそれぞれの手に白い石を二三持って、内一つを中空に放り投げた。
「起こしてしまったようじゃの」
「うん、起きたよ。にしても、こんな夜中にどうしたんだい? 朝まで勤めだと言ってたじゃないか」
「ああ、今しがた勤めが終わったのでな、キジルに会いとうなったからちょいと隙を見つけて抜け出してきたのじゃ」
「女の子が夜に、しかも一人で男の寝所に出向くなんて感心しないよ」
「ここはキジルの家ではあるまい。禳州は妾が家、妾が庭じゃぞ」
「それでも――」
「良い。明け方には祭りの最後の準備をせねばならぬ。時間が口惜しい。な、キジル、そなたもそう思わぬか?」
 ユェは拗ねた表情でキジルの小言を遮った。キジルも慌てて諌めたものの、同じく時間が惜しいと思うことに変りはなかった。正直に認めると、ユェはすぐ傍の岩に座り、キジルを手で拱いた。
 岩に座ったユェは白絹の所為もあって、神の岩に降りて来た天女のようでもあったし、夜を遊び場とする亡霊のようでもあった。白い手足がぼうっと暗闇に発光しているようだ。よく見れば、所々着乱れていて、子どもの割りに妙な色気があった。キジルは大きく開いた襟ぐりから覗くユェの浮いた鎖骨と白い肌を見まいと、隣に座るも視線を地に落とした。ふと、目の端にユェの長裙の裾に黒色の滲みが付着しているのを捉えた。
(泥でも跳ねたのかな)
 キジルは点々と続く滲みを追ってユェの長裙を上へ上へと遡る。すると、滲みは彼女の太腿の辺りでぷつりと途切れていた。嫌な妄想が頭をよぎった。
――あいつは傍付きの足なしジジイの慰みものになるのを待つだけの女だ
(まさか。泥だろ)
 どうしてもアルトゥンの言葉が頭を離れなかった。何度胸の裡で否定しても、変えがたい事実と断じられた不文律のように、アルトゥンの言葉はキジルの胸にも腹にもずっしりと圧し掛かる。鋭利で鈍い見えない楔が彼を縫い付けた。
「どうした、キジル。やはり眠かったか」
「いや……」
「ならばどうした」
「ユェの足元に血がついているように見えて」
 キジルは泥ではなく、血と指摘した。泥だと言ってはぐらかされぬ為に敢えて血と言ったのだ。
「ああ、これか」
 ユェは長裙の汚れにとっくに気付いていた。太腿の汚れを摩って取り立てて大したことでもないように、
「妾の血じゃ。ツゥイェとの“クラの儀式”でついたのじゃろう」
「クラの儀式?」
 アルトゥンの戯言が真実であるはずないとキジルは信じようとしていた。だが、同時に否定しきられぬ自分が心の大きな場所を占めており、惨めで女々しい追求を止めることが出来ない。
「神子が祭りに臨むに当たって清らかで穢れがないか神官どもが調べるのじゃ。神人検めの儀とも言うてな。詳しいことは秘儀ゆえ、キジルにも教えることは出来ぬがの。きっとその時に流れた血であろ。少々手荒で痛いこともあったが今は見ての通り、平気じゃ!」
 ユェは両手で拳を作ると朗らかに笑った。キジルは思い切って彼女の顔まで頭を上げた。暗闇でもきらきらと輝きを失わぬ瞳は、空元気で無理に笑顔を作っているわけでもないようだった。キジルは儀式の詳細を知らないため、完全に納得したわけでもなかったが、彼女の顔を見れば偽りでないことは一目瞭然であった。最も、万が一無謬の彼女があさましい行為の餌食となろうが、彼女自身が行為について理解しているとは考えられなかった。それでもキジルは、彼女の言葉を文面どおり、そのまま信用しようと決めた。
「それより何か話そうぞ! 儀式が終わればもっと話せるやも知れぬが、折角の貴重な時間じゃ。ほれ、キジル、何ぞそなたについて話せ」
 ユェは袖の裾を引っぱり、せっついってきた。完全に目が冴えてしまったキジルは、神官たちにユェとの逢瀬が見つからないかと心中穏やかでなかったが、ままよと頷いた。天還祭が終わればユェとそう易々会うことは出来まい。今夜が祭りを抜かせば今生の別れとなるかもしれない。キジルの暮らす草原と禳州はあまりにも遠く、各々の暮らしぶりはあまりにもかけ離れている。
 キジルはユェに草原の暮らしを、部族の話をしようと決めた。きっとユェが草原に来ることはないだろう。だから草原の美しいところを教えようと考えた。彼女は禳州が全てで、神子の役目を終えてもきっと禳州か凰都に住むことになろう。草原は伽話の世界でしかなかろう。
「どんな話がいいかな。なら、まず僕らの部族のカラ・アットっていうのはね……」
 キジルは黒い馬の名を冠する己の部族の創世神話、歴史、姻戚を子どもが楽しみに聞く故事のように話し、カラ・アットの遊牧する場所の名跡や名産を話した。ユェはこの頃合の少女特有の幻想じみた想像力を働かせてうっとりとして聞いた。
「草原、妾も行ってみたいのう……」
 ユェは瞳を潤ませた。
「そうだキジル、そなたの名の由来が聞きたいのう」
 そして話はキジルの身の上にまで及んだ。
「僕の名前?」
「そうじゃ。何か由あっての名であろ? 我が名は天上の“月”を意味するぞ」
「月、か! 妹のアンの名前も月という意味だよ」
 キジルはあっ、と言って大げさに反応した。月を冠する名は古今東西で女性の象徴としてありふれたものであったが、ユェが偶然にも妹と同じ意味の名であることが嬉しかった。ごく狭い間柄での、一種秘密めいた共有感覚が嬉しかった。
「妹御と同じか! ふふっ、それは光栄じゃ。キジル兄様」
「からかわないでくれよ」
 キジルの喜び様にユェも妹を演じて見せた。
「それで、そなたの名は?」
「僕の名は“赤”だよ。生まれた時に瞳が他のどの子どもよりも赤かったんだって。あ、髪もかな」
「ほおう、赤いかの?」
「うーん、どうだろ。僕はとりたてて赤いとは思わないけど」
「ふふっ、でも妾よりは断然赤いの」
 ユェはキジルの髪の端を掌にのせる。暗がりでは赤でも茶でも黒にしか見えぬが、彼女の目には燃え盛るような赤に映っているような素振りだった。
「そうか、同じか……」
 ユェは愛おしそうにキジルの髪を撫でた。空が藍色に明るみ、もうじき夜が明けようとしていた。



  

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