(3)

 淡い朝陽が蔀戸の間をすり抜けて宿営所の床に光を落とす時頃、キジルはまだ夢の中にいた。酋長は静かに頬に小刀を当てて余剰の髭を剃って身だしなみを整えていたが、俄かに宿営所の扉がけたたましく叩かれた。
 キジルは他部族の襲来かと飛び起きたが、木造の室内には髭剃りを中断し扉を見やる酋長のみがあり、禳州に来ていたのだとはっとした。
「キジルー、遊ぼうぞー」
 ぽかんと頬を押さえる酋長を尻目に、キジルは聞き覚えのある声を頼りにして部屋の扉を開いた。ユェだった。
「何だその眼(まなこ)は。さてはまだ眠っておったな?」
「ま、まあ……」
 ユェは唖然とするキジルの顔を覗き込んだ。今日は昨日と違って蘇芳に染められた筒袖と長裙を身に着けて、いかにも上機嫌だ。
「さ、着崩れはだらしがないぞ。着替えよ。そして妾と遊ぶぞ」
 キジルはユェが自身の胸元に手を当てるのを見て、己を顧みた。確かに寝巻が乱れて肌が露わになっている。早う、と促すユェに、キジルは肌を隠しながら、
「君が見ていると着替えられない!」
「ふふっ、それもそうじゃの」
 と、彼女を外へ追いやって、己は宿営所の中に引っ込んだ。キジルは扉の外で待つユェに、
「君、今日は何のおつとめもしないでいいの?」
 と訊いた。
「按ずるな、今朝の沐浴も、舞の稽古も、しかと終えて来た。これからは妾の時間じゃ」
 キジルは昨日と同じ袍衣を着ると慌てて帯を締めた。鏡は酋長が使用しているので、借りることができない。そも、ユェを外に待たせたままゆったりと顔を剃ることもできないので、両手で顎や頬を触って最低限人前に出られるものかと確かめた。それも杞憂に過ぎず、彼のような年少者はまだ大変に髭の伸びる時期にない。心なしか帯が歪んでいるよう感じられた。
「酋長、出かけても良いですか」
 酋長は二つ返事で善しとした。
「天還之儀まで、我々には何の行事もないからお友達と遊んできなさい。確かブルキュットにも同じ歳の頃の子がいただろう」
 天還祭は部族間の親交を深めるものでもあるから仲良くしなさい、と彼は言った。酋長はキジルを子ども扱いするきらいがあったが、互い年齢差を考えれば、いかにキジルが成人したと言っても、内心ではやはり子どものようなものかもしれなかった。それは酋長という役柄、部族は皆彼の家族であり兄弟であり子であるのでいたし方ないことだった。
「有難う、酋長!」
 キジルは礼を言った。だが、扉を開こうとしてふと戸を開ける手を止めた。扉越しに微かに桃の淡い香りがした。確か昨日もユェに出会ったときには桃の香りがした。気のせいかと思っていたが、本当に彼女が放っているのだろうか。そうすると、ユェは真に天女なのだろうか。
「支度は済んだか? 早う、行こうぞ!」
 そんなことを考えているとユェが急かしてきた。
「ああ、ごめん、終わったよ」
 キジルが扉を開けると、ユェは上機嫌で薄紅に熟れた桃を手渡してきた。
(この香りだったのか……)
「後で食べようぞ!」
「うん」
 屈託のない笑顔にキジルも頬を緩めて答えた。
 酋長は二人を見送った後、小刀を持った拳をぽんと打って、
「……あれが姫神子か!」
 と納得した様子だった。一部剃りすぎて髭に妙な凹凸が出来ていた。


 早朝の空気は清澄で冷涼に肌を撫でる。一呼吸するたびに体に清々しい気が循環し、浄化されるようだった。草原の風も同様に体内を浄化するよう爽やかだが、禳州の気は草原とは違う。草原の気は背を押すような父性の風で、また、全てに平等な遍く優しさのような母性の風だが、禳州のそれに父性や母性はない。洞窟の目の覚めるような冷気にも似ていたが、あの薄暗く湿気まとわりつく閉塞感はない。ただ、神性がある。選ばれた者だけを包む、俗人を突き放した気。草原とも洞窟とも違う、凍てつくような峻烈な神秘を孕んだ冷気なのだ。
 キジルは肌で禳州の気を、舌ではユェに貰った桃を味わっていた。ユェも朱をさしたような唇を動かしながら、汁を零すこともなく綺麗に桃を平らげていた。
「どこに行くんだい?」
 キジルが訊ねるとユェは袖をゆらゆらと靡かせながら、
「神官らの目が届かぬところ!」
 と昨日に続き、世話係の神官たちから姿を隠そうとした。彼らを煙たがっているようだった。管理されている、と皮肉っていたところから、彼らが四六時中彼女の傍にいることは容易に想像できた。だが、キジルにはそれも彼女が大国・曄の姫神子なる存在なのだから仕方のないことだと思われた。
 ユェの容姿は故事の公主さながら美しかったが、意外にも身軽だった。深窓の姫君であればわずらわしくけがらわしいと避けそうな土や草のあしらい方は非常に慣れているようで、時にはひょいと足首を覗かせて小石の上を飛ぶこともあり、容姿と行動の矛盾をキジルは必死に頭の中で是正するのだが、整理が追いつかない。カラ・アットの娘たちですら、この年頃になると数年後の婚儀に備えて、わずかばかり、表面上はしおらしくなるものだった。
 ユェは禳州の森を熟知しているようで、ずんずんと奥まった場所に踏み込んで行く。彼女なりに神官たちに悟られぬ場所と把握して移動しているのであろうが、キジルはもう既にここがどこか分からない。ただ、もう独りでは宿営所に戻れないだろうことは悟っていた。
「ユェ」
「ん、どうしたキジル」
 突然、キジルが前方の林藪に人影を認めてユェを呼び止めた。こちらのようすを盗み見るような仕草だが、決して近づいては来ない。キジルはユェを背後に隠して、藪の人物の動向を窺った。カラ・アットの女であれば護身に自信がある者が殆どで、男の影に隠れるのをむしろ恥とするが、ユェはそれとはまるで正反対の、守られて然りの存在と取れた。キジルは獲物に矢を射かけるときの静かな呼吸で、じっと相手を観察したが、やがて警戒を解いた。
「君」
 声を掛けると藪の向こうの人物が体を強張らせた。観念して、首元の辮髪を揺らしながら姿を現したのは道中度々姿を目撃したブルキュットの少年だった。彼は二人を値踏みするような視線でなめ回し、あからさまに嫌悪を示すと、ふいに身を翻して駆けていった。その様は狩られるものが発するひと絞りの抵抗のようであり、威嚇のようであった。凡そ“鷹(ブルキュット)”を冠する部族の男に相応しくなく思われた。
「行っちゃったね」
 キジルが肩を竦めながら振り返ると、ユェは眉根を寄せて視線を逸らした。
「どうしたの?」
 と聞けば、
「あの者は何だか怖い。猛爾元より恐ろしい」
 と、袖で口元を覆った。キジルにしてみれば、少年の方が敵わぬ大敵を目の前にして怯んだように見えたのだが、先ほどまで朱をさしていたユェの頬は季節外れの雪のように真っ白に染まっているのが袖の間から窺え、彼女はまこと少年を恐れているようだった。
「ユェ、大丈夫? 顔色がすぐれないみたいだ」
「あの者の気、とても暗くて光が底に沈んでいるようじゃ」
「そんなことないよ。ユェの思い過ごしかもすれないよ?」
 キジルは手を差し伸べた。ユェは、ともすれば、だだっこのように泣き出しそうな顔をしていた。
「さ、気を取り直して、どこに行こうか?」
 これ以上ブルキュットの少年の話をしてもユェの機嫌を損ねるだけだ。周囲を見渡したが、もうこれ以上怪しい人影は見つからなかった。キジルはいつまでも身を硬く強張らせているユェの手を引くと、思いつくままに前へ進む。その内に機嫌が直ったようで、
「ううん、こっちじゃ」
 暫くして、ユェはキジルの手を引き返し、笑みを宿しながら藪の中をすいすいと進んだ。
 やがて、ちょっとした円形の広場に出た。小さな穹廬を張れるくらいの広さを持った石の舞台だった。整備されているとは言い難く、あちらこちらに苔が蒸している。ユェはここでキジルの手を離すと、くるくると旋廻しながら舞台の中央に立った。ふわりと揺れる長い袖が陽だまりに反射して、彼女自身が淡く発光しているかのようだった。キジルはユェが舞台で遊ぶ姿を見て、ああ、やはり天女だ、とうっとりした。愛らしい年下の容姿をしたユェはおらず、眼前には空から舞い降りた無謬の神性が存在した。ユェは舞いながら朗々とした声で歌い上げる。

  天井蟠桃子,結子費千年。
  粉紅蜜甜甜,玉帝隠蔵之。
  听得越神乎,吾想食一口。

 言葉が紡がれるたび、ふわり、ふわりとユェの袖は圓を描いたり、或いは翻したりした。螺旋を描き、時に緩急をつける。彼女の舞は空を飛ぶ鳥であり、花と遊ぶ蝶であるが、同時にそれらのどれともつかなかった。キジルには、ユェがひらめかせる長い袖が、部族の崇拝する創世神話にまつわる、神の山から見る雲海のように思えた。それも明け方の薄暗い世界に燦燦とした光を満たす神秘的な輝きを連れたたなびく雲の帯。ユェの舞は心に沁み込み、生命の糧に変化した。俗な存在を凌駕した霊的な空気は、彼女を神の巫女たらしめていると言えた。
 ユェは最後に両腕を回旋させて二つの圓を創ると、穏やかに息を吐いて舞を終えた。キジルは見惚れていたあまり、舞が終わっても暫く呼吸をするのも忘れ、一心にユェを見つめていた。やがて彼女の表情が普段どおりに戻り、人懐こい笑みが浮かぶと、やっと緊張を解いて、思い出したかのように手を叩いた。
「す、すごいよ、ユェ! とても綺麗だ!」
「どうじゃ、これで妾がしかと稽古しておること、納得してくれたか」
 ユェは得意げに胸を張った。舞っていた時とうって変わり、ごく普通の少女らしかった。舞っているときのユェは酷く遠い存在で、キジルには地上人が天人を愛慕するような、一種の寂しさを孕む身分の隔たりを感じた。故に、この幼な顔の少女であるほうが、神懸かった美しさこそ損なわれるものの、安心できた。それでも、どちらの顔のユェに対しても同様に、侵しがたく、摘むことを躊躇われる高嶺に咲く花のようだと思うのだった。
「疑って悪かったよ」
 褒められたユェは満足そうにキジルの胸に顔を埋めると、
「ならば褒美でも貰おうかな」
 と顔を上げて目を瞑る。
 キジルはユェの陶磁器のように白い肌と桜色の唇を前にぴたりと固まった。
「何をしておる、早うせい」
 戸惑いを隠せぬキジルはユェを己から引っぺがす。キジルは部族間で成人と認められたとはいえ、まだ妻帯もせぬ、そも予定すらまだ立たぬ、初心な男である。目を瞑り顔を向けることは、殊に男女間では、親愛ではなく恋愛の間柄でのみ行われ、この場合に男が女にすることと言えば口吸いに他ならぬ。キジルには憚られた。
「ユ、ユェ、一体何を」
「早う早う、頭を撫でてくれ」
 いまだ目を瞑ったままのユェが頷くような動作で頭を示すと、キジルは拍子抜けして彼女の頭を恐る恐る撫でた。黒い艶の輝る髪はさらさらとしていて撫で心地が非常に良い。がっかりした気持ちよりも安堵の気持ちが強い自分に、キジルは我ながら情けないものだと嘆息した。当のユェは至極満足げで、
「ふふっ、キジルは兄様のようじゃな」
 と笑った。
「に、兄様?」
「そう。妾に兄がいたらきっとキジルみたいよ」
「そうかな。僕は兄といえば猛爾元将軍のような人だと思うな。逞しくて格好良い」
 キジルは精悍な若将軍の顔を脳裏に描いた。猛爾元が己の兄であったならば、きっとイェシルよりも第一に彼を慕うだろう。焼けた肌の上に爛と強く光の瞳、隆起した筋肉、頼りがいがないはずはなかった。絵に描いたような男の理想形だ。狩りもきっと上手いのだろう、とキジルは彼の姿からすっかり刀剣を取り上げてしまい、代わりに弓箭を持たせていた。
 だが、ユェははっきりとキジルの意見を否定した。
「そのようなことはない」
 落胆とも不信ともとれる彼女の語気にキジルは困惑した。
「あやつは獲物を見る目で妾を見よる。兄という風ではまるでないわ。餌を捕獲する雄犬よ。その前足に獲物を手がけておらねば気の済まぬ性分よ。銀の狼などと仇名されて、あれは薄汚れた灰の犬じゃ! あやつにとって妾はひとつの駒でしかない、ううん、野犬に勝ることも出来ぬ妾は供物の鹿と同じよ。予め屠られ献じられた肉塊でしかない」
 不信、不信、不信。ユェからは猛爾元に対して拒絶しか感じられない。それでいて己を歯痒く思っているのだ。
 疎んじられた将軍に、キジルはユェが抱くような印象は一切持ち合わせていなかった。勿論彼は将軍と直に話したこともなければ、将軍とてキジルは祭りに参加しにきた多数の遊牧民の一人でしかない。お互いに何かしらの感情を抱いてどうこうするには第一印象以外の経験が圧倒的に不足している。そも、キジルと猛爾元の邂逅はたったの一度きり。皇帝からの触れを伝えに来た使者でしかない。ここで何らかの否定的な意識を抱こうものであれば、その非は一方的な、妄想じみた恨み辛みの可能性が高い。
 しかし、ユェはどうであろうか。彼女は禳州の姫神子として、皇帝の名代として来訪する将軍に何度も会っていることは想像に難くない。彼女の印象が将軍との度重なる謁見の結果導き出された答えなのか、それとも閉鎖された緩やかな時の流れの禳州で暮らす彼女にとって、力を前面に押し出す猛爾元将軍の在り様が異質で高慢と感じられたが故に抱いた印象なのか。それもキジルが判断するには非常に経験が少ないのであった。ただキジルに分かったことは、
(これ以上将軍の話題を続けるのは折角の美しい空気とユェとの時間が台無しになりそうだ)
 ということだった。
「兄といえば、ユェは禳州でずっと暮らしているの? 家族は?」
 彼は思い切って別の話題に方針を転換させた。処世術の未熟なキジルが、この話題も別段ユェにとって楽しくない話かもしれぬと気付いた時は、もう口にしてしまった後だった。
「うん、居らぬ」
 ユェはさも当たり前のように答えた。
「妾は昔の記憶が曖昧でな。胎を借りた母御の顔も覚えておらぬのじゃ。でもな、ツゥイェも神官たちもおるから別段寂しゅう思うたことはない。鬱陶しいと思うことはあるがな。それに――」
 強がるために無理をおしているようには見えなかったが、愛らしい笑顔の影に、キジルは斜陽を浴びるような仄かな寂しさを確かに感じた。だが、それを払拭するような輝かしい笑みを浮かべて、
「今はキジルもおる」
 ユェの笑顔にキジルは己が上手く応えられたか分かりかねた。歪んだ顔を返してしまってはいまいかと心の隅で案じた。何せ己は祭りが終わればこの地から去る身である。ずっと彼女とともにあるわけには行かぬし、在りたいと願えども、彼女が姫神子という特殊な存在である以上、許されぬことであることは明白だ。このことを知ってか知らないでか、彼女も心の底ではキジルは数日の後にここを去ってしまうと覚っているかもしれない。
「な、キジル。家族とはどんなものじゃ? 妾はさっき兄といったがな、本当はあまりよく分からぬのじゃ。兄とはどんなものじゃ? 父とは? 母とは? 教えてくれ」
「家族……」
 キジルは家族の面々を思い浮かべた。広い意味では部族の全員が家族であったが、ごく身近な者だけを取り立てると、父と、母と、妹の顔が浮かんだ。ただし、三人のいずれもキジルが幼い時に最後に見た顔だった。
「僕には両親と、それに妹が居たけども、もう空に還ってしまったよ。父さんはとても頼りがいがあって、弓が得意でね、前の祭りで白い鹿を曄に献上したんだ。それで、母さんは……」
 キジルの記憶の中で、三人の姿はもうずっと変わらない。歳を取らない。若々しい。己が段々と父や母の年齢に近づいていく。部族の兄貴分の子どもたちは妹のアンほどに成長している。やがて彼らもアンの年齢を遥かに追い抜いていくだろう。キジルはユェに家族の話をしながら、どうしようも動かしがたい死者の時間を噛み締めていた。ほろ苦い滋味がじわりと喉の奥から滲み出してくる。ユェに話しながら、心の半分は、本当ならば両親共にイェシルのように皺が刻まれ始めているはずだとか、アンはユェほどの美しく育っているはずだとか、頭の片隅で仕方のないことを考えていた。
「キジルが家族を愛するのと、妾がツゥイェや神官らを愛するのとは、何だか違うな」
 ユェの表情が微笑が花がほころぶようなものから、反対に蕾へと萎んだように変容した。今の彼女の顔は蝋で模ったような愉楽の残滓に形作られていて、キジルがふとした瞬間に火を点せば、溶けてしまいそうだった。
 だが、これも全てキジルの主観にほかならない。物心ついてこのかた肉親が居らないというのが当たり前である彼女に、殊に禳州で無謬の姫神子として、神の子として育てられた彼女に、肉親とは恋しいものであると教える者があろうか。国の神子である以上、国家や皇帝を敬えと教育されど、家族とは、と教える物好きなど居ようものか。
 ユェは血縁の不在に絶望しているわけではない。ユェにとってはツゥイェと神官たちが――社会的な意味で――家族だ。血縁の肉親こそおらないが、或いは寂しいという感情を疑似体験しているとも考えられた。家族に対する個人の感情をキジルが己の定規で測ったに過ぎない。ユェがキジルと己の愛し方を違うと感じたのも同様のことだ。だのに、どうしてだかキジルには、彼女が心の底で互いの愛し方は決定的に違う、と決めつけてしまったように感じてならなかった。
「決めたぞ!」
 ユェは唐突に語気を強めた。
「天還之儀ではキジルのために舞おうぞ」
「そ、それは――」
 今度の表情はとびっきりだった。拒絶することが憚られる、天真爛漫な天人そのもので、キジルは閉口した。だめだよ、ユェ。と、言葉が続かない。ユェが己のために舞うのは純粋に嬉しい。だが、天還之儀ではいけない。天還之儀は曄と遊牧の民の契りの祭りのはずで、そこに私情を挟んではいけないはずだ。キジルはまるで己が曄に叛逆の罪を企てるようで酷く怯えた。神子が公のためでなく、特定の一個人のために舞ったがために、結果国王の不興を買い、一族が滅亡したり、国家転覆が起こってしまったりしないであろうか。キジルは故事に聞く傾国の舞姫の物語を思い出していた。
「キジル、そなたの考えは分かる」
 キジルが二の句をつがないでいると、ユェは頷いて言った。
「でもな、神に奉納する舞、曄に捧げる舞、話もしたことのない客に振舞う舞、どれも腹の底で気持ちが入りきらぬ、真摯ではない。そんな舞はつまらぬ。そんな舞こそ妾に舞いを与えたもうた神に失礼ではないか」
 そして、木々の梢から見える、白んだ空を指差し、
「白い光がそなたを包むのが見えたのじゃ」
「え?」
「神託じゃ」
 と、次にキジルの胸元を指差した。
 キジルは疑心を抱いた。唐突に神託が下ったと言われても、天還之儀の舞の件を曖昧の霧の彼方に追いやるように煙に巻こうとしているふうにしか受け取れなかった。ただ、やはりこれもキジルの主観でしかないが、この時のユェの瞳がほんの少し、翡翠のような美しい碧に光ったように感じた。
(いや、周りの木の葉が映り込んで僕の目だってきっと同じようになっているはずだ)
「キジルは神の声を信じぬか?」
 ユェは至極不思議な様子だった。
「いや、そういうわけじゃない」
「そなたには聞こえぬのか?」
「うん、僕には聞こえない」
 姫神子のユェには聞こえようが、凡夫のキジルには聞こえぬのが当然だった。否、キジルだけではない。酋長にも他の部族の皆にも聞こえなければ、ツゥイェにも神官にも猛爾元将軍にさえも聞こえないのが常だ。
 しかし、ユェは違う。彼女は常に神の声と共にある。
「ユェには聞こえるんだね」
 ユェはこくりと頷いた。
「そうじゃ。妾の頭に直接話しかけてくる。こだまのようにも聞こえるし、耳元で囁いておるようにも聞こえる。でもいつも初めは遠くから妾を呼ぶのじゃ」
 ユェは両手で耳を澄ます動作をした。彼女が言うには、神の声ははじめは遠くから、己が呼ばれていることに気付いた後に急に鮮明に聞こえるように変わる。と同時に、瞼の裏に朝日を身に浴びたような真っ白な世界が訪れ、目には見えぬが何者かがどんどんと己の胸に向かって飛来するのだという。飛来した何者かはすうっと彼女の胸の内に入り込み、その瞬間、体が突風に吹かれたような爽涼感と、夜空の星が落ちてきたような光に包まれる。手足の指先がぴりりと痺れ、はっとすると、何らかの纏まった言葉――即ち、啓示が忽然とユェの脳裏に姿を現す。それはユェが今まで考え付かなかったようなことであり、思いを巡らしもしなかったことであった。それに、予め持ち合わせていない知識であることが多かった。決してユェの心層に沈殿していた潜在的な思考の種が萌芽した訳ではない。その白の世界を抜けると、まるで最初から置いてあった礼物の箱のように、長年親しんだ一冊の書物のように、或いは生まれる時に母親の胎内から手に握って出てきた宝石のように、神の声が己の言葉となって出ずるのだった。
「キジルのために舞っても神は怒らぬぞ。白い光が守るもの。逆を返せば、神が妾にキジルのために舞うも良しと言っておいでとも解釈できるぞ」
 ユェは確信して喋っているようだが、キジルには半信半疑だった。彼女が神子の道理に外れたことをするための詭弁としているのではないかと心配した。下手なことをすれば国家反逆の罪に問われかねぬ身分なのだ。国家に仕える姫神子は国家の僕に他ならず、国の意図に反すれば、神の子といえどどのような罰が待っているかは計り知れなかった。
「でも――」
「決めたのじゃ! キジルが何といっても覆らぬ。妾は決めた!」
 ユェはキジルの反論の口を塞ぐように言葉を被せた。尖らせた唇から、ごく幼い子どものようにぴろりと見せた舌が可愛らしくて、キジルは思わず笑ってしまった。
「わかったわかった。明日会う時までに気が変わってることを祈るよ」
 何がおかしいのか分からないユェは不思議そうな顔でキジルに何故笑うのかと問うていた。
「そういえば、叔父さんに持たせてもらった哈蜜瓜があったんだった。明日、ユェにもあげるよ」
「明日?」
「そう、明日。早いところ食べないと痛んでしまうかもしれないからね」
「明日か……」
 ユェは少し悩んで、
「明日は天還之儀前日で何かと忙しくての、そなたと遊べぬのじゃ」
 と、しょんぼりした。
 聞けば、明日は清めの儀にクラの儀、舞の最終練習や衣装の合わせ、深夜まで経文をあげた後に徹夜で神に祈りを捧げねばならぬという。得意げに説明するユェだが、全て初めての経験のことで、自身で恐らく手間取るだろうと踏んでいた。
「何だか大変なんだね」
 と、一晩中せねばならぬことがあると聞き、姫神子という要職の忙しさに唖然とするキジルが言うと、彼女は、
「おお、大変じゃ!」
 と、大げさに袖を振って見せた。大人でも大変な困難を一身に任せられていることへの優越が、言葉とは正反対に、彼女の表情をどことなく誇らしげに変えていた。褒められて自信のついた子どもそのままの反応にキジルは再び笑みを作った。
「ところで、ハミうりとはどんな味じゃ?」
「そうだね、とっても甘いんだよ。外は薄い緑色でね、中は綺麗な橙色をしているんだ」
「桃より甘いか?」
「うーん、桃とは違う甘さかな」
「そうか。食べてみたいのう、ハミうりとやらを」
 明日が無理ならば、また次の機会にユェに持っていってあげるよ、という約束は出来なかった。実現せぬ約束をすれば、例え方便だとしても、別れた後に辛くなる。己の不甲斐なさに後悔し兼ねない。キジルは喉まで出かけた言葉をごくりと飲み干した。
 ふいに、遠くから木々の間をすり抜けて鈴の音が聞こえた。りーんと心の静まる清浄な音を耳にしたユェは空を見上げた。紅碧に染まった空には銀の粒がまるで一つの刺繍のように縫い付けられていた。
「夕餉の合図じゃ」
 まだ陽は傾き始めたばかりで、漆黒に染まるまでは時間を要したが、ユェは、帰らなくてはならぬ、と不貞腐れたように呟いた。夕餉の後に勤めがあるそうで、彼女は潔く帰路に着いた。
「明後日の祭りでは、キジルに一番良い舞を見せてやるぞ。楽しみにしておれ!」
 ユェは別れ際、一度だけキジルに振り返った。
「うん、楽しみにしてるよ」
 と、キジルが答えてやると、頬を紅潮させて微笑み、手を振って去っていった。



  
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