(2)

 翌朝、まだ日が地平線より顔を出したばかりの時刻にキジルたちは迎賓館を出発した。朝靄に包まれた日の光を背に受けながら、キジルは朝飯に持たされた包みを開いた。ほんのりとした温かさが指に伝わる饅頭(まんとう)を口に運びながら、馬車は美しい街並みを過ぎていき、風景は次第に黄色の土くれを露出させた乾いた大地へと姿を変えた。
 日が南中する時候になると御者が馬を止めた。
「わぁ……!」
 キジルはうたた寝から目覚めて、馬車を降りると思わず声を上げた。眼前に広がる黄色の大地の真ん中にこんもりと森林が生い茂っている。
「森……? こんな所に森が?」
「これが禳州だよ。オアシスともちょっと違うし、不思議だろ」
 御者の男が馬のたてがみを撫で付けながら、呆けるキジルに誇らしそうに言った。なるほど、この森は不思議で、神秘的という言葉が似合うとキジルは思った。この森の木々はオアシスの樹木と違って、湿潤な平野に育つ木がある。かと思えば、逆に涼しい場所に生える針葉樹も生えている。踏み込んでみれば、足元には森を囲むように小川が流れ、循環するように森の深部に注いでいる。小さな白い岩には様々な苔が蒸し、木の根にびっしりと小箱ばかりの大きさの石が建てられていた。
「周辺は乾燥の激しい土埃ばかりなのに、何でここだけ潤っているのかは分からないんだ。でもだからこそ神聖な地“禳州”なんだろうね。禳州の禳は魔よけの御祓いをするって意味だからな、坊主は知ってたかい」
 御者の言葉にキジルは頭(かぶり)を振った。確かに、乾燥地帯にぽっこりと生えた緑の楽園は奇跡としか思えぬ神の所業で、禳州を見た者に神聖な、或いは、特殊ないわれのある土地だと思い込ませる。
「これは何?」
 キジルは木の根元の石を指差した。
「祠だよ」
「祠?」
「ああ、キジル、それは帝国の人々が信仰している神の家だ。私たちとは別の神々を信奉しているんだ」
 酋長が御者の言葉を付け足した。言われてみれば内刳りが施され、花が添えられており、確かに石の祠だ。しかし、神々の家にしては酷く窮屈な印象だ。草原でも近頃は曄の影響を受け、曄風の祠堂や廟が建つことがあるが、何十倍も大きな建物であったし、道端の石を積んだ原始的な祠にしても、もっと広々と構えて建っている。
「帝国の神も天国(アスマン・パレク)に住んでるのでしょうか? それとも楽園(ナイラト)?」
「そうだな、天に住んではいらっしゃるだろうけども、我々とは別の楽園だろうなぁ。そもそもナイラトは我々遊牧民の楽園だ。曄ではまた別の名前だろうよ」
「ははは! そんなことが気になるかい。今の場所と同じで曄の楽園はあんたたちの天国の南かもね!」
 御者は、自分たちのように許可のない人間はこの先に進めないから、また天還祭のことを教えてくれよ、と言って馬に水をやっていた。どうやら一休みしたら凰都に折り返すようだ。キジルは昨晩将軍より口外無用の達しがあったことを思い出し、曖昧に笑みを返した。
 八部族が続々と到着し、全員が揃ったところで禳州の出迎えの神官に連れられて神域の奥へと進んだ。ここは凰都と違って白い石で出来た小さな門だけが境界を示している。生い茂る木々の青葉は瑞々しく、砂塵はない。清浄、という言葉が似合う。――だからこそ神聖な地“禳州”なんだろうね、と言っていた御者の言葉が反芻された。
 一行がまず通されたのは、神秀宮という円柱に屋根を冠した二階建ての建物だった。隅々に細かい彫刻を施してはあるものの、凰都の迎賓館とは比べるまでもなく質素で、見方によっては世俗的な猥雑さが排されて上品とも取れた。屋根だけは王宮と同じ黄色の三彩瓦で飾られ、緑の風景の中異彩を放っている。この神秀宮は禳州という森の中央にあって、背後に曰くありげな大樹を背負っており、一つの祭壇の役割を担っているという。天祇地神を祀るための祭壇で、本祭の天還之儀にはここが宴会場となるそうだ。
「ようこそ、皆さん。禳州によくぞいらっしゃいました」
 奥の間から一人の老人が豪奢な装飾の台座に乗って四人の神官に運ばれてきた。老人は神秀宮の中央に置かれた黒漆塗りの椅子に降ろされると拱手した。
「わたくしは祭りを取り仕切る神官の長をしております。神の元に名を捧げましたので名乗る名前がありませんが、皆はツゥイェと呼んでおります故、皆さんもどうぞそうお呼び下され」
 小さな瞳は肉の弛んだ瞼と伸びきった眉毛に押しつぶされて線のように細く、表情は白鬚に隠されて定かではなかった。特筆すべきはツゥイェには両脚が無いことだった。キジルは初めてそれを目の当たりにした時にぎょっとした。長い着物で隠されてはいるが――そも、服を着ない理由もないので結果的に隠れてしまったというのが正しいのだろうが――膝から下はぺたんとしており、肉の気配はまるで無かった。
「足は不自由ですが、皆さんの滞在のお手伝いと祭祀の進行は精一杯させて頂きますぞ。よろしいかな? 少年」
「は、はいっ……。すみません……」
 ツゥイェはキジルと視線を交わすと笑った。キジルは己が無意識にじろじろと年老いた神官長を見ていたことに気付いて恥じた。他意はないにしろ悪い印象を与えかねなかった。
「申し訳ない。この子は草原しか見たことがないものでして、何もかもが新鮮で。今もこの美しい祭壇に見惚れていたようです。カラ・アットを代表してお詫び申し上げる」
 酋長がキジルの頭を抑えた。
「ほう、カラ・アットの少年でしたか。なれば白の牝鹿はこの少年の成果ですな?」
「はい、僕が仕留めました」
「それは良い! 少年、あなたも此度の祭祀の主役の一人ともいえますな。うむ。元気で、好奇心があって、良い!」
 一瞬、ツゥイェの瞳が大きく見開かれた。濁った白目にまん丸とした鳶色の瞳がぎらりと輝いた。キジルは両足がないことよりも、その妖しい瞳の輝きに唾を飲んだ。それから老人は上機嫌で一通りの挨拶を済ませて、
「最後に、ここは滞在期間中ご自由に散策されて構いませんが、祭事の主役である姫神子様がおいでの場合には、どうぞみだりに触れたり、口を利いたりせぬように。姫神子は神の化身です。清浄さを保ち、儀式を成功させるため、どうぞお守り下さい」
 と、凰都の猛爾元将軍と同じ注意を皆に喚起した。
 宿泊所は部族ごとにあてがわれた。神秀宮よりも手前の、白門近くにある木造の高床式の家屋で、乾燥地に湿潤な地方の建物があるのがやはり不思議だった。家屋の下には大きな磐座(いわくら)があって、まだらに苔が蒸していた。
「間違って踏むと祟られそうな岩だな」
 酋長は磐座を見て、たった三段の階段を慎重に上った。
「食事は各戸に運ばれてくるんですね。僕はてっきり昨夜のように皆で食べるものだと思っていました」
「私もだよ。誰かと食べるにもこう各戸が遠いとなぁ」
 彼はふうと息を吐くと部屋の片隅で荷解きを始めた。
「キジル、私は晩飯の時間まで仮眠を取るとするよ。馬車の長旅は老体には堪えるわ。お前はどうするかい」
「僕は少し散策してきます」
「そうかい。迷わないようにな」
「はい、気をつけます」
 酋長は片手を振ると、すぐに船を漕ぎ出したので、キジルは音を立てぬようそっと扉を閉めて宿を抜け出した。
 方向感覚には自信があったが、禳州の木々は人を惑わす力でも持っているのだろうか。キジルはため息をついて空を仰いだ。空の淡い水色は木々の枝葉に阻まれてすっかり隠れてしまっている。
「弱ったなぁ……」
 見渡す限りの緑。街であれば店や看板が目印になるが、禳州ではそうはいかない。似たような木と岩では目印になりえなかった。苔の形を模様と見立てようにもそれぞれが特徴のある生し方をしているわけでもなく、途方にくれたキジルは大きな岩の根元に腰を下ろした。
「一方に進めばどこかに抜けられそうなものだけど、何で小屋のひとつも見当たらないんだろ」
「ふぅん、そなた迷子になったのか」
 突然、天から声が降ってきた。
「えっ?!」
 キジルは天を見上げた。空耳にしてはやけに現実味を帯びているが、何者の影も見当たらない。
「落とすなよ」
 と、考えを巡らせていると再び声が降ってきた。
 狩りで鍛えられた聴力に聞き間違いはなかったが、この咄嗟の出来事は、狩りで経験したあらゆる難事よりも度肝を抜かれた。
「それっ!」
――少女が降って来た。
 黒曜石のように美しく輝く髪と白妙の衣。衣から見える手首が恐ろしく細く、まるで白磁のようだったので、キジルは壊すまいとして両手を広げた。柔らかい袖がキジルの顔にかかった。果物のような甘い香り――これは桃だ――が漂ったかと思うと、途端、ずっしりとした現実的な重みが腕に圧し掛かってきた。
「わっ!」
 予想外の重量にキジルは驚いて声を上げた。
「わっとはなんだ、失礼であるぞ。それに、ほれ、取りこぼしたぞ」
「そんなこと――」
 ちゃんと君を受け止めたじゃないか。キジルは途中で言葉を切り、青白い木の葉を映し込んだ少女の潤んだ瞳を覗き込んだ。覗き込まざるをえなかった。目は魂の窓というが、彼女の目は純粋なる魂のかたまりそのものだった。神の意思が彼女をそう創ったとしか思えなかった。キジルは吸い込まれるようにして、少女に魅せられたのだ。額の紅い花鈿が緑ばかりの風景の中でとても映えていた。
「ほれ」
 少女が指差した。先には薄紅に熟れた桃がひとつ、ぐしゃりと歪んでいた。彼女は得意げに、ほらな。と言ってみせた。確かに取りこぼしていたが、二間も離れていてはどちらかを取りこぼすに決まっていた。
「それで、そなたは妾が重いと申すか」
「えっ、そういうわけじゃ……」
「表情に表れておったぞ」
「まさか!」
「妾は健康も体型も全て管理されておる故、重いはずあるまい」
 鋭い指摘にキジルはどきっとした。落ちてきたものを受け止めるのは想像以上に力がいるものだった。腕だけでなく、身体全体への衝撃も強い。まるで心構えができていない内に、手の内にある狩りの獲物を鳶に横取りされた時のような強い衝撃だった。そう、キジルは油断していた。だが、それには一つ大きな理由があった。
「重かったわけじゃないんだ!」
「ならどういった見解だ」
 キジルは答えるのを躊躇した。空想めいていて口にするのがあまりにも恥ずかしかった。
「体重がないと思っていたんだ」
「なんと?」
 キジルは投げやりに言った。
「子どもの頃からずっと、天女には体重がないと思っていたんだ!」
 須臾、少女はきょとんとした表情でキジルを見やった。そして、
「あっはははははははは」
 と袖で口元を隠しながらも歳相応の少女らしく笑った。
「そなた面白いの。天還祭のお客様?」
「うん。君は?」
「妾? そなたから降りてからでよいか?」
 キジルははっとして彼女をゆっくりと降ろした。とん、とはだしのつま先が軽く苔を踏む所作を見て、やはり天女めいていると思った。彼女から漂う桃のような香りも相俟って、ついつい見惚れてしまう。
「妾はユェ。禳州の神子じゃ」
「神子? も、もしかして君が姫神子様?」
 ユェはそうじゃ、と首を縦に振った。
 キジルは驚いた。姫神子というのは、儀式の巫女であるからして、てっきり年季の入った婆やだと決め付けていた。神官だの巫女だのは経験豊富でないと祭祀を取り仕切れない、そんな先入観を持っていた。それはひとえに彼の部族カラ・アットの祭祀が古老たちによって執り行われているからだった。だが、彼女は明らかに幼く、恐らく、己よりも年少の娘に違いなかった。
「しまった!」
 キジルは両手をあげ、ユェからぱっと離れた。
「どうした」
「僕、将軍からもツゥイェさんからも姫神子様には一切触れてはならないし、そう、口も利いてはならないって言われたんだった!」
 ユェはキジルの顔を覗き込んで失笑した。
「ばかじゃのう、気にすることはない。神官らは外の人間にはいつも偉そうにそう言いおる。その癖、妾の沐浴や髪結いの時には平気で触れてくるし、機嫌はいかがかと無駄口を叩くもの」
「でも、外の人間と口を利くと、折角の禊の効果がなくなるんじゃ……」
「まさか! 妾は姫神子。神子は常に穢れを祓う存在にて清浄なる者。そなたが口を利いた程度で妾が穢れることなどないわ」
 ユェは胸を張った。彼女の言葉は清々しく、ひとかけらの間違いも含まぬように清冽だった。言葉には力があり、ひとたび口から発されると、さも真で正しいかのごとく人を錯覚する。正しい、そう思わせるのは異邦の地に来たキジルの胸の裡に隠された心細さからなのか、はたまた彼女の神的な魅力からなのか。
「だからそなたが気にせずとも――」
「ユェ様!」
「まずい!」
 彼女は目を見開いて背後に振り向いた。
「姫神子様、ここに居られましたか!」
 白い服装の女が二人、こちらへそそと駆け寄ってきた。先に神秀宮で見たツゥイェの傍付きと服装が似ているので、彼女たちが神官の一員であることは容易に想像できた。
「ユェ様、どうぞお戻りください! 神官長もお待ちです!」
 ユェは左右を見渡した。逃げ場を探していることはすぐに見て取れた。きっと先ほど木の上にいたのもそういった理由であろう。
「逃げねば! 衣装合わせなどとな! あのような重い衣装窮屈でならぬわ!」
 彼女はキジルの背後をすり抜けると、空でも飛ぶかのように優雅に、しかし素早く駆けた。
「そうじゃ、そなた、このまままっすぐ行けば宿泊小屋に出るぞ。それと、名を聞いておらなかった」
「僕はキジル」
「キジル……、キジル。キジルな。覚えた。また会おうぞ!」
 ユェは宿営所の方角を指差した手をそのまま天に振りかざすと、今度こそ消えていった。後には木と、岩と、苔と、姫神子を逃してしまいうろたえる神官の女たちが取り残された。


 ユェの示した方向に進み――彼女を取り逃した神官たちに案内してもらったこともあり――キジルは何とか宿泊所に帰ることができた。酋長の注意も虚しく、結局は迷ってしまったが、ユェに出会ったことで気分は高揚していた。想像と一回転異なる姫神子のようすにキジルはとびっきりの宝を見つけたような気分だった。
「酋長、姫神子に会いました。名はユェというそうです」
 酋長は晩餐の精進料理を口に運びながら、ほうと目を丸くして見せた。肉を除き、大豆や寒天で肉を模して作られた食事は、想像していた味気のない料理と違って意外にも美味だ。
 蔀戸の外からは点々と灯火(みあかし)が見え、神官たちの祈祷の声が聞こえてくる。これは祭りの期間中、昼夜絶え間なく続くのだそうだ。
「で、どんな姿の占い老婆だった?」
 彼も姫神子には興味津々で、どんなにすごい呪術の使い手なのかと心躍らせているようだった。彼の姫神子の心象と、ユェに出会うまでのキジルの姫神子の心象は一致していたであろうと思われた。キジルは少しばかり事実を知っている優越に浸りながら、それがですね、と答えた。
「ほんの子どもだったんですよ。僕よりも一つ二つばかり年下に見えました。そう、アイが生きていればあのくらいになっていたかもしれない」
「そんなに若いのかね。それで、どんな容姿だね」
「それが、キュミュシュ爺のおとぎ話に出てくるような天女みたいでした」
 酋長は天女と聞くと料理を口に運ぶ手を止めて古老の話を思い出した。
「黒い絹の髪、黒曜石の瞳、月の雫のような白い光を体に纏い、自在に衣の裾をたなびかせて空を飛ぶ、花と仙桃の香りを放つ熟れる前の処女、か」
 酋長が古老の言葉を反芻している間、キジルは妹のアイに思いを馳せていた。
 母と妹はある日忽然と姿を消した。それは父が天還祭に招待され、帰路、客死した翌年の春のできごとで、キジルにしてみれば父を失った矢先に立て続けに家族全員を失ったのだった。二人は宿営地からやや離れた湿地帯へ木の実を採りに出かけていた。だが、夕刻になっても戻っては来ず、部族をあげて捜索に出た。懸命の捜索にもかかわらず二人の足取りは不明だった。湿地で足跡が消えていたこと、馬は木にくくりつけられたままだったこと、沼に母の髪飾りが浮いていたことから、二人は底なし沼に足をとられたのだろうと結論づけられた。付近に宿営している間中、遺体はあがらず、ついに宿営地を移る日に酋長から捜索の打ち切りを言い渡された。キジルは酷く困惑し、衝撃を受けた。当時は自分もいつ後を追おうかと、穹廬の片隅でじっと塞ぎ込んで、酷く荒れていた。毎日訪れるイェシルを追い返したりもしたが、結果、彼の手厚い保護によって今に至るわけだ。
 妹のことを思い出したのは久方ぶりだった。意図的に避けていたつもりはなかったが、無意識に遠ざけて心に鍵をかけていたともいいきれなかった。自然に思い出せたのはユェに出会ったからかもしれない。妹の記憶はキジル自身が幼かったせいもあり、非常に曖昧だが、兄の贔屓目でも可愛らしかったことを記憶している。アイは機嫌が良い時、決まってキジルにこう言った。
「あたし、大きくなったらきっとお兄ちゃんのお嫁さんになるわ。絶対よ」
 春の花を摘みながら、満面の笑みを浮かべて、
「だからよそからお嫁さんをもらっちゃ嫌だからね!」
 と花束で顔を隠すのだった。
(……アイ)
 キジルは食事を終えて横になってもまだ妹のことを思い出していた。
「ねっ、キジルお兄ちゃん」
 歳こそ二つも離れなかった妹だが、背の低い彼女はいつも大きな眼を上目遣いにしてキジルを見た。
(可愛かったな、アイ……。何で兄ちゃんを置いていったんだよ)
 キジルはうとうととまどろみながら妹の愛らしい表情やちょっとした仕草を思い返していた。もうずっと昔のことだから、瞼の裏に浮かぶ妹は殆どキジルの空想といっても過言ではなかった。くるくると草原を動き回るアイが、キジルのまどろみの中で次第にユェに姿を変えた。
(あれ、何でだろう)
 キジルは眠りと現のあわいの中で、己の名を呼ぶアイともユェとも似つく一人の少女を、広い草原の中追いかけるのであった。



――倶利伽羅刀、倶利伽羅刀……。
 ユェは己の寝所の枕元に祀られている古神宝の直刀に心の中で話しかけた。倶利伽羅龍と七ツ星が刀身に彫刻されていることから、彼女は倶利伽羅刀と呼んだが、神官たちからは正式に祝いの直刀と呼ばれていた。毎夜、日中のできごとをこの刀に報告するのが彼女の日課だった。古神宝といえど、刀が奇跡の力を具現させてユェに答えることはない。ただ、そこに在るだけだ。それでも彼女が話しかけるのは、ひとえに、この刀にしか本心を打ち明けられないからであった。他の者は総じて彼女を姫神子として扱い、本心はさておき、敬う格好を見せる。姫神子の御力に与ろう、或いは、背後にある曄の権力に結びつこうと媚へつらう。祝いの直刀だけが彼女を何者としても見ない。ただ、そこに在るだけ。
(今日おもしろい者に出会ったぞ。風のにおいがするのじゃ)
 ユェは薄掛けを口元まで引っぱり、くすくすと笑った。
(草のにおいもするのじゃ)
 ユェが喜びを感じたのは久方ぶりのことだった。新しいものを見て、触れて、彼女は知りたいと願った。閉塞した空間に、戒めの多い息苦しい日常。ユェの毎日は息継ぎを禁じられた水槽の中の魚のようだった。そこに吹いた新たな風。それがキジル。
(キジル、そなたはどんな人間かの)
 彼女は心から知りたい。そう願った。



  
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