(4)
  ビュレが滅びた次の冬。
 凰都における生活はまだ一年に満たなかったが、ドルジは城内での信頼をおおむね勝ち取ったといってよかった。
 曄という国が擁する人種はドルジが想像していたよりも多く、貴族の子息でなければ入れないとされる禁軍でさえ、混血の者が多く所属していた。家柄こそ名門ではあるが、今時妾や庶子に異民族の血が流れていることは決して珍しくない。そのことが幸運にもドルジの偏見と孤立から救い、また、彼自身の真面目で努力を惜しまぬ性格は城内に気の合う戦友を作った。
 監視の眼や妬みによる嫌がらせはすべてなくなったわけではないが、以前に比べれば実に少なくなったこと。少なくとも、ドルジは孤独ではなかった。一族を失った彼の大地にはいまや踏み固めた頑丈な足場ができていた。もう沼や泥の中を足掻く必要はない。確固たる基礎の上に己という柱が立ち、これから高楼を形作るためにぴんと背筋を伸ばしているのが分かった。
 そうした手応えを感じたドルジは、だが、大成するには遠く、まだまだ年若い少年であった。彼は禁軍に居場所と役割を見つけたが、だからといって曄への――傑への怨嗟は簡単に捨て去れはしなかった。
――俺の背中には何千、何万のビュレの死霊が乗っかっている。祖先の地に還りたいのに、だまし討ちされた悔しさのあまり素直に神の地へ赴けないでいるんだ。黒い澱みとなって俺の背から邪視のように曄のあちらこちらを見つめている。祖父を、父を、彼らを祖先の地へ送るには傑の首を取って恨みを晴らすほかない。俺がやらないで一体誰がやるというのだ。
 強い決意はこの一年近く、ドルジの中で消えることはなかった。或いは、彼が老人であったなら口惜しくも諦めたのかもしれない。だが、若さというのは怖いもので、後先を顧みず、時に興奮した獣のように理性を排して激情に走る。


 ドルジが決行したのは新月の夜だった。月のない夜は殊更に闇が深い。冬の寒さも手伝って、場内はいっそう暗く感じられた。ただし、今宵は風が強かった。女のうめき声にも聞こえる風が木造の窓枠や扉を叩き、そのたびに格子や蝶番ががたがたと音を立てた。
(物音をかき消してくれる。ちょうどいい)
 ドルジは唾をのんだ。思いとは裏腹に鼓動の早鐘はけたたましく感じた。袖に隠した匕首が異常に冷たい。風で指先が冷えているからではない。匕首が温度を持って自ら凍てついているかのようだ。それどころか、この匕首は訓練で扱うどんな武器よりも重いのに、いつまでたっても手に馴染まなかった。柄を握る右手はしっとりと汗をかいていたのに、指先はかじかんだように強張っていた。
(待ち望んだ日だ。夜が明ければ俺の勝利になる!)
 がたがたと風に揺れるのが己の歯なのか、養心殿の窓なのかはもはや関係がなかった。ドルジは一年近く見聞し、足で歩いた城の抜け道を使い、或いは、衛兵の隙を狙って王の寝所へ近づく。
 傑は寝所の前に衛兵を置かない。心を養う寝所であるのに、兵が傍にいれば心が休まらぬと臣下に言い放ち、以来数年間、衛兵は養心殿の入口より十丈も手前の練精門まで下がってしまった。王の命を狙う輩はごまんといる。衛兵を置かないことは、すなわち危険を顧みぬ行為であるが、今のドルジにとっては都合の良いことこの上ない。
 養心殿は王政の行われる乾乃宮と比べると、ずっとこじんまりとしていて、いかにも私的な空間である。乾乃宮のように内外に向かって王の威信を示すような絢爛な彫り物もなければ装飾の類もほとんど目につかない。せいぜい雨どいや水路に龍の眷属である蚣蝮(コウフク)やチ首(チショウ)を意匠しただけにとどまっている。三方を蓮池が囲んだ朱色の回廊を過ぎれば、もう王の寝所は目の前であった。
 寝所の扉は一面だけ開け放たれていた。風通しのためにしては、今宵は些か風が強い。ドルジは扉の格子から中のようすを伺う。長方形の格子に透かし彫りされた水仙の花が、茎や葉とともに部屋の奥から漏れる蝋燭の光を受けて淡く反射している。暗がりの水仙の花はまるで匂い立つようにドルジを静まり返った部屋の奥に誘う。
 強風に煽られ、扉の奥の衝立がかたかたと音を立てた。扉を揺らす風音にも、部屋の主は無言である。
 暫時が過ぎた。ドルジは意を決して部屋の中に入り込む。
 寝室とはいえ、傑の部屋は広い。衝立の向こう側にはドルジにあてがわれた兵舎の二人部屋のゆうに四倍はあると思われた。正面には天蓋付の床があり、白く透けた天蓋が閉められている。
 私室とはいえ、ここで仕事をすることもあるのだろう。奥には大きめの文机には文房四宝が整然と置かれ、少し離れたところには陶製の小さな円卓が置かれている。円卓は白磁に藍で唐草が描かれており、息抜きのための机だろうか。その他にあるものといえば洗面器と台くらいである。多くの物を置かぬことによって刺客が隠れる隙をでき得る限り削いでいるのかもしれない。
 ドルジはゆっくりと床に近づく。耳をそばだてると天蓋の向こうから規則正しい息遣いが聞こえてきた。
(都合のいいことに眠っている)
 空いた左手で天蓋をそっと持ち上げる。
(曄王・傑! 見つけたり!)
 仰向けで眠る傑の端正な顔に、まさしく狙い求めていた本人だと確信する。
 ドルジは逆手に握っていた匕首を掌でくるりと回すと、どくどくと脈打つ傑の首筋を見つめる。
(心臓では万が一へまをして骨に引っかけでもすれば失敗する。首の血の管であれば一度で致命傷にならずとも、匕首を手前に引くときに第二の機会がある!)
 彼は鼻から大きく息を吸うと、匕首を頭上から一気に振り落した――と思った瞬間、ドルジはさっきまで傑が眠っていた床の上に寝転がされていた。
「やれ、やっと寝首をかきに来たかと思ったら、お粗末だな」
「な、なぜ……!」
「科白すらお粗末だ」
 瞬きをする間もなく、形勢逆転されていた。
 傑はドルジの胸に片膝を乗せながら馬乗りになり、彼の手首を力いっぱい掴む。痛くとも匕首を放すまいと粘ったが、ぎりぎりと力を籠められて、ドルジはついに匕首を白布の上に落してしまった。
「くそっ! 貴様、眠っていたはずじゃ……!」
 奥歯を噛みしめるドルジに、傑は頷きながら、
「ああ、眠っていたとも。鼻息の荒い誰かさんが来るまではな。はて、余は狼を飼い始めたつもりが、鼻息を聞けば狗のようだ。手首を引っ張られて寝転がされたことも気づかぬ駄犬でも飼うてしまったか」
と嘲笑った。
 傑の力は想像していたよりも強かった。まだ少年とはいえ、一年近く軍で鍛えたドルジの両手を片手のみで押さえ、余裕の動作で匕首を地面に放り投げた。からんと乾いた音を立てて匕首は石畳の床を叩く。
「教えてやろう。暗殺をするなら刃先に毒を塗ることだ。初歩的なことだとは思うが此度はすっかり抜け落ちていたよう見受けられる。それと、よもや暗器はあの匕首ひとつとは申さぬだろうな」
「くっ……」
 図星だった。視線を背けたドルジに、傑は深くため息をついた。
「ほんに猛進の駄犬だな」
 彼は興味深そうにドルジの青色の瞳を覗き込む。硬質の長い黒髪がドルジの褐色の肌に落ちる。
「犬を繋ぎ止めるには些か心もとないが」
 傑は寝巻の帯を外すと、ドルジの両手首を縛り、それを床の壁にある桃の透かし彫りに結びつけた。
「衛兵が来るまでに抜け出してやる!」
「おっと、活きのいいことだ」
 暴れるドルジの脚を押さえて、傑は口の端を上げる。
「案ずるな。衛兵は呼ばぬ。余の主義でな。しかし朝になれば支度の官たちが来よう。それまで楽しもうではないか」
「叛逆の徒をいたぶり楽しもうというのか! さすがは蛮曄の王!」
「ふむ、誰ぞから聞かなんだか。いたぶりはせん。何せ貴様に反骨の相はない、と。それに――」
「曄の卜占などたかが知れている!」
「意外だな。北戎は卜定を篤に過ぎるほど重んじると聞いたが、はて、勘違いか」
「我らの巫女の言葉と貴様らの囲う薄汚い老人を一緒にするな」
「残念だが老人ではない。まだ三十路に足りぬ青年よ」
「歳など関係ない!」
 馬鹿馬鹿しい言い争いに、傑が大笑いした。
「はっはっは、言っていることが支離滅裂だ」
 そして、不意に目を細め、
「――そろそろ黙れ」
 一層低い声で囁いた。
 背筋が凍った。ただ恐ろしい。闇の底に潜む神獣の唸り声のようだった。
 ドルジは目の前の男が、確かに王なのだと思った。人を屈服させられる気の持ち主。長たる者の風格。「長」というものは、一種生まれもってきた気性なのだ。自然と人の間に立ち、先導し、他の者が連なる。
 傑にはそういった一握りの人種が持つ、燦然とした何かをまとっていた。悔しくも、ドルジはそう思ってしまった。今にも眼前を覆いかぶさろうとしている黒い闇にドルジは怯んだ。身じろぎもできないほどに。
 この後の運命を象徴するかのような風の強い夜の日だった。



   
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