(4)※R15の描写あり
 ビュレが滅びた次の冬。
 凰都における生活はまだ一年に満たなかったが、ドルジは城内での信頼をおおむね勝ち取ったといってよかった。
 曄という国が擁する人種はドルジが想像していたよりも多く、貴族の子息でなければ入れないとされる禁軍でさえ、混血の者が多く所属していた。家柄こそ名門ではあるが、今時妾や庶子に異民族の血が流れていることは決して珍しくない。そのことが幸運にもドルジの偏見と孤立から救い、また、彼自身の真面目で努力を惜しまぬ性格は城内に気の合う戦友を作った。
 監視の眼や妬みによる嫌がらせはすべてなくなったわけではないが、以前に比べれば実に少なくなったこと。少なくとも、ドルジは孤独ではなかった。一族を失った彼の大地にはいまや踏み固めた頑丈な足場ができていた。もう沼や泥の中を足掻く必要はない。確固たる基礎の上に己という柱が立ち、これから高楼を形作るためにぴんと背筋を伸ばしているのが分かった。
 そうした手応えを感じたドルジは、だが、大成するには遠く、まだまだ年若い少年であった。彼は禁軍に居場所と役割を見つけたが、だからといって曄への――傑への怨嗟は簡単に捨て去れはしなかった。
――俺の背中には何千、何万のビュレの死霊が乗っかっている。祖先の地に還りたいのに、だまし討ちされた悔しさのあまり素直に神の地へ赴けないでいるんだ。黒い澱みとなって俺の背から邪視のように曄のあちらこちらを見つめている。祖父を、父を、彼らを祖先の地へ送るには傑の首を取って恨みを晴らすほかない。俺がやらないで一体誰がやるというのだ。
 強い決意はこの一年近く、ドルジの中で消えることはなかった。或いは、彼が老人であったなら口惜しくも諦めたのかもしれない。だが、若さというのは怖いもので、後先を顧みず、時に興奮した獣のように理性を排して激情に走る。


 ドルジが決行したのは新月の夜だった。月のない夜は殊更に闇が深い。冬の寒さも手伝って、場内はいっそう暗く感じられた。ただし、今宵は風が強かった。女のうめき声にも聞こえる風が木造の窓枠や扉を叩き、そのたびに格子や蝶番ががたがたと音を立てた。
(物音をかき消してくれる。ちょうどいい)
 ドルジは唾をのんだ。思いとは裏腹に鼓動の早鐘はけたたましく感じた。袖に隠した匕首が異常に冷たい。風で指先が冷えているからではない。匕首が温度を持って自ら凍てついているかのようだ。それどころか、この匕首は訓練で扱うどんな武器よりも重いのに、いつまでたっても手に馴染まなかった。柄を握る右手はしっとりと汗をかいていたのに、指先はかじかんだように強張っていた。
(待ち望んだ日だ。夜が明ければ俺の勝利になる!)
 がたがたと風に揺れるのが己の歯なのか、養心殿の窓なのかはもはや関係がなかった。ドルジは一年近く見聞し、足で歩いた城の抜け道を使い、或いは、衛兵の隙を狙って王の寝所へ近づく。
 傑は寝所の前に衛兵を置かない。心を養う寝所であるのに、兵が傍にいれば心が休まらぬと臣下に言い放ち、以来数年間、衛兵は養心殿の入口より十丈も手前の練精門まで下がってしまった。王の命を狙う輩はごまんといる。衛兵を置かないことは、すなわち危険を顧みぬ行為であるが、今のドルジにとっては都合の良いことこの上ない。
 養心殿は王政の行われる乾乃宮と比べると、ずっとこじんまりとしていて、いかにも私的な空間である。乾乃宮のように内外に向かって王の威信を示すような絢爛な彫り物もなければ装飾の類もほとんど目につかない。せいぜい雨どいや水路に龍の眷属である蚣蝮(コウフク)やチ首(チショウ)を意匠しただけにとどまっている。三方を蓮池が囲んだ朱色の回廊を過ぎれば、もう王の寝所は目の前であった。
 寝所の扉は一面だけ開け放たれていた。風通しのためにしては、今宵は些か風が強い。ドルジは扉の格子から中のようすを伺う。長方形の格子に透かし彫りされた水仙の花が、茎や葉とともに部屋の奥から漏れる蝋燭の光を受けて淡く反射している。暗がりの水仙の花はまるで匂い立つようにドルジを静まり返った部屋の奥に誘う。
 強風に煽られ、扉の奥の衝立がかたかたと音を立てた。扉を揺らす風音にも、部屋の主は無言である。
 暫時が過ぎた。ドルジは意を決して部屋の中に入り込む。
 寝室とはいえ、傑の部屋は広い。衝立の向こう側にはドルジにあてがわれた兵舎の二人部屋のゆうに四倍はあると思われた。正面には天蓋付の床があり、白く透けた天蓋が閉められている。
 私室とはいえ、ここで仕事をすることもあるのだろう。奥には大きめの文机には文房四宝が整然と置かれ、少し離れたところには陶製の小さな円卓が置かれている。円卓は白磁に藍で唐草が描かれており、息抜きのための机だろうか。その他にあるものといえば洗面器と台くらいである。多くの物を置かぬことによって刺客が隠れる隙をでき得る限り削いでいるのかもしれない。
 ドルジはゆっくりと床に近づく。耳をそばだてると天蓋の向こうから規則正しい息遣いが聞こえてきた。
(都合のいいことに眠っている)
 空いた左手で天蓋をそっと持ち上げる。
(曄王・傑! 見つけたり!)
 仰向けで眠る傑の端正な顔に、まさしく狙い求めていた本人だと確信する。
 ドルジは逆手に握っていた匕首を掌でくるりと回すと、どくどくと脈打つ傑の首筋を見つめる。
(心臓では万が一へまをして骨に引っかけでもすれば失敗する。首の血の管であれば一度で致命傷にならずとも、匕首を手前に引くときに第二の機会がある!)
 彼は鼻から大きく息を吸うと、匕首を頭上から一気に振り落した――と思った瞬間、ドルジはさっきまで傑が眠っていた床の上に寝転がされていた。
「やれ、やっと寝首をかきに来たかと思ったら、お粗末だな」
「な、なぜ……!」
「科白すらお粗末だ」
 瞬きをする間もなく、形勢逆転されていた。
 傑はドルジの胸に片膝を乗せながら馬乗りになり、彼の手首を力いっぱい掴む。痛くとも匕首を放すまいと粘ったが、ぎりぎりと力を籠められて、ドルジはついに匕首を白布の上に落してしまった。
「くそっ! 貴様、眠っていたはずじゃ……!」
 奥歯を噛みしめるドルジに、傑は頷きながら、
「ああ、眠っていたとも。鼻息の荒い誰かさんが来るまではな。はて、余は狼を飼い始めたつもりが、鼻息を聞けば狗のようだ。手首を引っ張られて寝転がされたことも気づかぬ駄犬でも飼うてしまったか」
と嘲笑った。
 傑の力は想像していたよりも強かった。まだ少年とはいえ、一年近く軍で鍛えたドルジの両手を片手のみで押さえ、余裕の動作で匕首を地面に放り投げた。からんと乾いた音を立てて匕首は石畳の床を叩く。
「教えてやろう。暗殺をするなら刃先に毒を塗ることだ。初歩的なことだとは思うが此度はすっかり抜け落ちていたよう見受けられる。それと、よもや暗器はあの匕首ひとつとは申さぬだろうな」
「くっ……」
 図星だった。視線を背けたドルジに、傑は深くため息をついた。
「ほんに猛進の駄犬だな」
 彼は興味深そうにドルジの青色の瞳を覗き込む。硬質の長い黒髪がドルジの褐色の肌に落ちる。
「犬を繋ぎ止めるには些か心もとないが」
 傑は寝巻の帯を外すと、ドルジの両手首を縛り、それを床の壁にある桃の透かし彫りに結びつけた。
「衛兵が来るまでに抜け出してやる!」
「おっと、活きのいいことだ」
 暴れるドルジの脚を押さえて、傑は口の端を上げる。
「案ずるな。衛兵は呼ばぬ。余の主義でな。しかし朝になれば支度の官たちが来よう。それまで楽しもうではないか」
「叛逆の徒をいたぶり楽しもうというのか! さすがは蛮曄の王!」
「ふむ、誰ぞから聞かなんだか。いたぶりはせん。何せ貴様に反骨の相はない、と。それに――」
「曄の卜占などたかが知れている!」
「意外だな。北戎は卜定を篤に過ぎるほど重んじると聞いたが、はて、勘違いか」
「我らの巫女の言葉と貴様らの囲う薄汚い老人を一緒にするな」
「残念だが老人ではない。まだ三十路に足りぬ青年よ」
「歳など関係ない!」
 馬鹿馬鹿しい言い争いに、傑が大笑いした。
「はっはっは、言っていることが支離滅裂だ」
 そして、不意に目を細め、
「――そろそろ黙れ」
 一層低い声で囁いた。
 背筋が凍った。ただ恐ろしい。闇の底に潜む神獣の唸り声のようだった。
 ドルジは目の前の男が、確かに王なのだと思った。人を屈服させられる気の持ち主。長たる者の風格。「長」というものは、一種生まれもってきた気性なのだ。自然と人の間に立ち、先導し、他の者が連なる。
 傑にはそういった一握りの人種が持つ、燦然とした何かをまとっていた。悔しくも、ドルジはそう思ってしまった。今にも眼前を覆いかぶさろうとしている黒い闇にドルジは怯んだ。身じろぎもできないほどに。
「ぐっ、ああっ!」
 首筋が熱い。
 黒い獣に牙を立てられたのだと気付いたのは直後だった。声を上げれば上げるだけ、傑の牙はドルジの首筋に深く刻まれた。
 両手の自由を奪われた彼は、何とか覆いかぶさる傑を蹴り上げようと試みるが、傑はびくとも動かなかった。ドルジの脚力が恐怖により弱まっているのか、それとも傑の力が想像以上に強いのかは分からない。ただ、何度蹴り上げたつもりでも、膝から下がばたばたとあがくだけだった。
 しばらくすると傑は含み笑いをしながらかぶりついた牙をおさめた。唇や鼻にはドルジの首から流れた血がてらてらと蝋燭の光に照らされている。それをぬぐった指先を一本一本丁寧に舐め取る。
 ドルジは呼吸を荒立てた。俄かに、狩りの対象となった恐怖を感じた。
「ここを狙っていたのだろう」
 傑は血を舐めとった指を二本、己の首筋に当てた。ドルジよりも白い首筋に灰色の血の管が浮かび上がっている。
「余は喜んでいる。余を殺そうとする輩がついに寝所へ参ったのだからな。影で、表で、幾度も殺してやると言われ続けたがここに辿り着けた者はいない」
 傑の言葉は挑発めいていたが、皮肉ではなさそうだった。反対に、心の底から歓喜しているようだった。戦で勝鬨を聞いた兵のように、胸の内側から熱が沸々と湧き上がり、あぶくを伴って煮えているかのようだった。
 ドルジは恍惚とした王に再び臆した。生を喜び、まっとうに暮らしてきたドルジにとって、傑は想像よりもずっと理解しがたい歪んだ存在に思えた。天から死を賜るつもりもないのに、賽で死の目が振られるのを至高の遊戯のように熱望している。
「なぜ……。なぜ貴様のような人道にもとる虐殺者が死なない」
 苦虫を噛み潰したような顔のドルジを見て、傑は不思議そうに眉をひそめる。
「なぜって、貴様がしくじったのだろう。それに、余の民と余の家畜を窃盗する貴様らは人道にもとらぬか」
 心外だと言わんばかりに非難するが、やがて思い出したかのように喉を鳴らして笑うと、
「――否、北戎は獣の氏族であったな」
 両手でドルジの首を絞めた。
 ドルジは驚きのあまり声を失ったが、傑は構わずにしゃべり続ける。
「獣は調教せねばならぬのだが、まこと残念なことに余にも獣の一族であるらしい。貴様らと違って血に流れているのではなく、“気”の性質の問題でな。余の父母にも獣の気質があって、そういう意味では血には抗えぬのだ」
 ドルジは、傑の言うことが何を意味するのか理解できなかった。確かに曄の先代王は政を放棄し、享楽に耽ったため宰相一派が力を持ち、国の安寧をかき乱したと、遠くビュレの草原にも伝わってきていた。その妻にして傑の母の話はよく聞かぬ。一体何が獣と関係あるのだというか。
 傑の両手の力が緩められた。左手がドルジの首筋を滑り、鎖骨の凹凸をなぞる。やがて曄服の襟の合わせを避けるように、指先はうっすらと筋肉の張った、しかしまだ少年の薄さを残す胸の上で止まる。
「父にも、母にも、余にも、淫の気があってな」
 どくんと心の臓が飛び跳ねる。突然、乱暴に襟の合わせが広げられ、上半身が露わになった。
「獣――というよりは、“けだもの”の血だ」
「なに――」
「後宮の媚び狐どもでは到底満足できぬ。気高き狼とやらは果たして余を楽しませてくれるかな」
 黒い獣の瞳がぎらりと光り、近づいてくる。右手をずらすと、傑は流れた血を舐めとるようにねっとりと舌を首筋に這わせる。唇から吐き出された息が舌の熱と絡み合う。
 ドルジはぞっとした。頭がひんやりとしてやけに寒々しかった。王の暗殺を決行する時に命の覚悟をしたはずなのに、それよりもずっと恐ろしいことが起きようとしていた。
「や、やめろ……!」
 傑の指はドルジの拒絶を意に留めることなく胸をまさぐる。後宮の女にするように、男であるドルジにも同じ手順をする。だが、反応の乏しいドルジに、傑は眉を寄せる。
「トズやトゥルナの堅物女どもでも胸を揉めば喜びよがるというのに物足りぬと申すか」
 傑は後宮の半数を占める少数民族の女たちを例にあげて疑問を呈した。傑にしてみれば、ドルジが己を拒み、恐怖しているとは露とも思いつかないのだ。王に抱かれるのは後宮では誰しもが名誉と浮かれるくらいだから、ドルジにもその名誉を与えれば、さすがにほだされると思っているのかもしれない。
「うむ、余は前戯を大事にするほうなのだが良いだろう。ならば生き急ぐ貴様に譲歩しよう」
 舌が体を這う。快感などはなかった。ただ、得体のしれぬ蛞蝓のような何かが、ドルジの体を道のように移動する。鎖骨、胸、脇腹、得体のしれぬ生き物が通り過ぎるたびに、背骨の両側がぶるっと震えた。
「やめろ……。やめてくれ」
 暴れてもどうにもならぬ状況に、ドルジは次第に語気を弱める。
「そう拒むものではない。慣れれば快楽。初めてが女でないゆえ悲しいか。遊牧民たちは男色を好むのだろう。習慣とするのであろう。なれば貴様も今宵からは立派な北戎の男だ小宝」
「俺は好まぬっ!」
「威勢の良いのは好きだ」
「貴様を殺す! 何度でも……! っふ……」
「何度でも殺しに来るといい。――だが、先に余だ」
 傑がドルジの脚を撫ぜる。引き締まった筋肉の膨らみを何度も行き来する。やがて手はドルジ自身を包み、慈しむように、或いは乱暴に愛撫を重ねた。不快でしかない行為だった。目の前の男も不快であれば、縛られて良いように弄ばれていることも不快だった。しかし、気持ちとは裏腹に指の腹で執拗に弄られたそれは次第に硬度を増して張りつめた。
 傑が脇腹を舐めながらにやりと笑う。ドルジが何事かを言ったり、反応したりするのを待っているのだ。ドルジは目を瞑り、息をかみ殺すしかなかった。
 それが却って傑の欲情を煽った。下半身から溢れた粘度のある液で指を濡らすと、更に奥を求めて指を進める。
「あ、あぁ……、や、ぬけ……!」
 ゆっくりと入口を広げるように、傑の太い指が奥をなぞる。傑は悪事に満足したようないやらしい笑みを浮かべた。
「ようやく反応したな。何、徐々にほぐせば思ったよりも痛くはならないだろう」
「やめろ……! ぬけ……!」
「良いな、減らず口も怒った表情も良い」
 傑は指を増やすと殊更嬉しがった。着物を肌蹴させ、大きく屹立する自身を褐色の半身に摺り寄せた。
「白い肌の花のような細身の少年も良いが、貴様のような褐色肌も良い。髪の色が良いとは言ったが、そうだな、目尻に朝露のような涙をためて憎しみを宿す目も良い。余を八つ裂きにしてやりたいのにできないもどかしさ、ひしひしと伝わってくるぞ」
「……!」
 素直に命をとられたほうがどれほどましか。これまで以上に腹の中で煮えくり返った憎悪が出口を見出せずに体躯を駆け巡った。雑草のように踏みつけられても何度も首を上げてきた矜持が蹂躙される。かの王が己の部族や、それに連なる部族たちを蹂躙してきたように。彼は支配し、害することでしか快感を得られないのだ。そんな歪な存在に屈してなるものか。
 肘を張り、脚を蹴り上げようとした時、ふいに傑がドルジの下半身を返し、何かが中に侵入した。
「うっ……、あ……いた……な……、やめ、ろ」
 声が上ずる。熱を帯びた傑自身が内部から肉を抉るように動く。
「痛い……! やめろ……! や、めっ……」
 熱は、傑自身の持つものなのか、傑によって己の熱が引き出されているのか、それとも痛みのせいなのか、判然としなかった。ともすると、すべての熱が一体となって体を侵犯しているのかもしれなかった。
「いたっ……! 痛い……!」
 本来男を受け付ける場所ではないところに、無理にあてがわれたそれは震える声を聴いてなお、奥へ進むのを止めなかった。何度も腰を打ち付け、血と蕩けた液が腿を伝う。
「うぅ……っ!」
 痛みにしゃくりあげるドルジの唇を、傑は節くれだった指でのけて舌を押さえる。もう片方の手では腰の動きよりも素早くドルジ自身を包んだ。
「行為に没入すれば痛くなどない。じきに愉悦に変わる」
 耳元で囁き、輪郭をなぞるように舐める。
 ドルジの矜持がこれほどまでに打ち砕かれたことはなかった。メルゲンと呼ばれ、英雄のように丁重に扱われた過去はもはや幻想だった。快楽などないのにあたかも自然に反応を見せる体が憎らしかった。
 熱はもはや憎悪と痛みを包括して全身に巡った。体が脈打ち、動きが緩やかになったとき、彼は改めて自覚した。彼にとっての現実は脚を伝う体液のように熱を奪われ冷え冷えとした生の残滓であると。



   
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