第四章 花の姫君(2)

 時間に都合がついたので手合わせでもするか、と朧が真剣と木刀を携えた。疾風との稽古が数日なかったので、楸は朧に素振りや体力作りを一人で取り組むように言われていたが、そろそろ飽きてきた頃だった。
 祀の逗留期間は既に折り返しているので、数日のうちに稽古は再開するはずであったが、それにしても一人稽古だと正しい形になっているか、力が入りすぎていないかなどの判断も自己に問答せねばならず、対人の修行と違った難しさがある。だから、相手をしてもらえるとのは正直有難い。
 朧の修行法は疾風の正統な修行法と違い、一風変わったもの――例えば藻の茂った池の中に長い間潜っていたり、牛の腹にしがみついたまま人に悟られず移動したり、馬に感づかれぬよう皮膚に穴を開けて血を飲用に頂いたり、とにかく全身が酷く臭かったり、汚くなる修行ばかり――が多かったので、彼は少し警戒をしていたが、刀を持っているということは、曲芸でもせぬ限りは真っ当な稽古だろう。
 彼らは家の裏手にある氏神社の手前の、五間四方に草を刈った空き地に来ると、それぞれ木刀を構えた。朧が手入れをした場所以外は野の草がぼうぼうと生えていたが、実際の戦いは何も平坦な土や石の上に限ったことではないと敢えて刈らなかったものだ。どのみち斬り合いが進めば、今立っている平坦な土を越えて草むらで取っ組み合いすることになる。
「よーし、楸。どっからでもかかって来い!」
 朧は一間先から青眼に構えている。彼女は小太刀を好んで使う癖から、大刀の時も中心をやや右(相手の左目)にずらすきらいがあった。当人は無構えが一番性に合うと言っているが、楸の稽古の時には修練のしやすさを考慮して敢えて構えを作った。対して楸は正眼に構える。正攻法にしろ奇襲にしろ、今の段階で彼が朧に勝てることはまずない。が、正眼は負けぬための攻守を兼ねた構えだ。問題はいつ、どこから斬り込むかだ。
(まずは左の二の腕)
 青眼の正中よりややずれた構えであれば左側に少しの隙が出る。勿論相手もそこを斬ってくることは見越しているから、まず簡単に斬ることは出来ぬだろう。だが、一間も離れた間合いを詰め、次の手に繋ぐには十分だ。
 楸はそう判断すると八双になり、駆ける。朧は楸が来るのを待ち構えていて、動こうとしない。代わりに、おどけた表情は霧が晴れたかのように消え、刀の金属のような硬質で静やかな魂を黒曜石然とした瞳の奥に宿らせていた。
「やぁッ!」
 楸が袈裟に斬る。木刀がひゅんと空を斬って線を描く。しかし、案の定体を捌いた朧に峰を打ち落とされる。
「何じゃその力のない気合は。わしが避けるのを見越して手を抜いて居るな? そんなことではいざという時、すぐにやられてしまうぞ」
 楸の木刀を打ち下ろした朧の切っ先は、彼の小手を目掛けてずいと滑り込むように攻め入る。楸は手を開いて間合いを取り、再び中段に構える。
 力の差が歴然である以上は奇をてらう法に賭けるしかない。木刀を取って始めた稽古ではあるが、忍びはその場のあらゆるものを有効に使い、相手に対処する必要がある。朧が一番よく分かっているはずだろうから、いわゆる卑怯な手も戒められはしないだろう。
 楸は体を捻り、ぐいと木刀を上段に上げる。そしてそのまま朧の脛をめがけて斬り付ける。
「甘いわっ!」
 朧は跳躍し、右足で彼の霞(かすみ ※こめかみのこと)を一蹴。
「くっそぉ」
 重心が低いままの楸は、蹴りを避けきることが出来ぬと悟り、そのまま体当たりで前進する。が、その手は食わぬと朧は彼の頭に手をついて宙を返り、背後を取る。
 ――躱された。
 楸はすぐさま身を向き直すが、既に朧の切っ先が正確に心臓を狙い定めている。
 乾いた音が鳴る。
「ぐっ」
 寸で構えた木刀が半分に折れて中空を飛ぶ。心臓を突いて来ると予想した朧の太刀筋が一文字に薙がれたがためだった。しかし、楸には驚いている間はなかった。手の内に残った半分を朧に投げつけ、体勢を整える。ここからは武器は己の体のみとなる。長い得物を持つ相手の間合に入れなければ負けてしまう。適度な大きさの石や木の枝でも手に入れば良いが、そう運良くはいくまい。楸が拳を構えると、朧は誘いに乗って間合を詰める。
(一太刀目を躱せば、少しの隙ができるはず……)
 もう盾になる木刀の切れ端は存在しない。躱せなければ痛い思いをするし、実戦では死に繋がる。
 楸は生唾を飲み込んだ。朧が慎重に間合の詰めるたび、彼の喉元まで息が詰まりそうだった。蝉の鳴き声がどこか遠くのことのように感じられた瞬間――、
「まあ! すごいですわ! わたくしよりも小さな子どもまで修行しているのですね」
 ぱちぱちと間の抜けた拍手の音が聞こえてきた。
「えっ」
 拍子抜けした楸が緊張感のない拍手の主を目で追うと、祀が頬を紅潮させてこちらを見ている。脇には甲斐甲斐しく彼女に手を貸す疾風が居た――と認識した途端、脳天に強烈な衝撃が走った。
「ってェーーー!」
「よそ見するな。お前、死んだぞ」
「ふぁい……」
 朧の一打だった。
 木刀で小突かれたところをさすっていると、祀が寄って来て、楸の頭を撫でた。
 愛らしい面の優しげな祀に頭を撫でられたのは素直に嬉しい。憧れの女性に近付けたような淡い胸の高鳴りを感じる。しかし、彼女と疾風がまるで寄り添うようにしているのは気に食わない。これでは許嫁どころか、仲睦まじい夫婦にしか見えぬではないか。
「お見苦しいところを。祀殿、おみ足のお加減は如何です」
 木刀を腰帯に引っ掛けた朧が尋ねる。稽古はすっかり中断してしまった。
「はい。お蔭様でゆっくりとでしたら平地を歩けるようになりました」
「この里は坂に多いですから、快癒されるまでは人の手を借りたほうが宜しいでしょう。所でこんなところに用があってですかな?」
「祀が稽古を見たいと言ってね」
 朧の問いかけに疾風が代わって答える。
「わしらは構いませんが、もっと上の方の稽古を見たほうが宜しいのではないですかな?」
 朧がそう言うもの当然だった。藤間屋敷であれば、八人衆や他の上忍、中忍が詰めている。朧と楸のように未だ忍びでない修練者の稽古よりも、技の真髄を極めた者たちの稽古が拝めるはずだ。
「いや、泰光が気合の入った荒稽古を見せてくれたのだが……」
 疾風はため息を吐いた。
「気合が入りすぎていてね。戦場を駆けた時のようだったよ」
 泰光の文字通りの荒稽古は、祀をいたずらに刺激しただけで終わったようだ。
 箱入り娘の祀は武家出身でありながら、鍛錬をしたことはない。一般に武家の女子は、武芸十八般とは言わずとも、綺姫のように何かしら護身の術を学んでいるものだった。しかし、九人兄弟の末に生まれた唯一の女子とあって、蓮見殿は彼女を蝶よ花よのみの世界で育てている。武器を持ち、滑らかな乳白の手に痣や肉刺(まめ)を作らせたくないがために、祀は一度も武具を手にしたことがない。
 故に、普段目にせぬ、流血を伴う泰光の荒稽古は意識の耐え兼ねる惨劇だったのだ。彼女にとって、泰光の稽古はさながら拷問のようであり、地獄の審判のようであった。加えて、顔を青くして怖がる彼女を宥めようと、泰光が返り血のついた顔を拭わずにやってきた。ために、祀は遂に泣き出してしまったそうだ。泰光の一流の業を見せたい熱意が却って仇となった。
「申し訳ございませんでした……。泰光様も落胆されていたようで……」
 祀はしゅんとして心から申し訳なさそうな面持ちだったが、楸は頭の痛ささえなければ噴き出しているところだった。
「でもこの里に嫁すのでしたら、いずれわたくしも慣れねばと思いますの」
 祀は前向きだった。真剣な顔付で、柔和な彼女には珍しく、目に強い力が宿っている。一応は一般の武家の女子の在りようは知っているらしい。
「……慣れなくても良い」
「そうです。この里は女人が戦うことはまずありませぬからな」
 疾風と朧に諭されるも、祀はだからと言って、と言葉を濁す。
「いいえ。わたくしが慣れたいのです。そうですわ。朧様、少し稽古をつけていただけませんか」
「ええっ! 俺の稽古は?!」
 祀は武家育ちでありながら、何の武芸も身につけていない自分を少しは気にしている様子だった。顔をあげて朧を見る。大人しい性格の彼女にしては、大胆な思いつきだった。拳を両手に作り、彼女なりに有無を言わさぬ気迫をかもし出している――つもりらしい。
「わしは構わんのですが、上からの許可がありませんとな。それにその足では基本の動作すらちと難しいですの」
「ねーねー! おーちゃん俺の稽古!」
「ちょっと待てって。……疾風、どうする?」
 ぴょこぴょこと視界の脇で跳ねながら自己主張する楸を制止して、朧はこの場で最も位の高い疾風に仰ぐ。疾風は暫時逡巡するが、祀の張り切った笑顔を一瞥すると、何もかも諦めたかのような語気で、
「木刀に触れるくらいならば良いだろう」
 と言って、自らは朧が草むらに置いていた真剣を二振り持ち出し、楸を手招いた。
「君は私が稽古をつけよう。暫く休みにしていたから、弛んではいまいかとくと見せてもらうぞ」
 楸は真剣を用いられることに勝って、疾風に稽古をつけてもらえることが余程嬉しかったようだ。刀を一振り受け取ると、目を爛々と輝かせて鯉口を切った。

 四人の様子を茂みから覗く影があった。
 影は四人が稽古を終えぬうちに茂みから抜け出し、里の神路を上った。彼は泰光の瓦屋敷の門を潜ると、屋敷の主の部屋へ赴く。軒下でも艶やかに浮き立つ黒々とした髪の束を揺らし、襖の向こうで泰光が許可を下すのを待つ。
「入れ」
「失礼仕ります」
 許可を得て、鋭く尖った刃のような瞳が静かに襖の中に滑り込んでいく。
「どうじゃ、長門(ながと)」
 風呂上りの泰光は、いつもは茶筅のように結った髷を肩に垂らしたまま、自ら鬚の手入れに勤しんでいる。内密の話に小姓はすっかり下がらせたようだった。
 対座したのは同じ八人衆の一人である長門だ。歳は三十三。八人衆の中では東雲に次いで年若の出世頭である。彼は物事を斜に構えて見る性質で、疑り深く、用心を怠らぬ性格をしている。彼は泰光傘下の忍びではないが、求める結果や判断基準が似ているせいか、しばしば利害が一致して互いに共闘することがあった。そして、里の将来像についても彼らの見識は一致している。
「泰光殿のおっしゃるとおりですな。このままでは若君は祀姫を娶らぬでしょう」
 長門は胡座して今しがた目にした四人の様子を語る。
「うむむ。この七日で若と姫の親睦が深まると思ったのにあの小娘め。しかも祀姫に稽古をつけて喜ばせておったじゃと? ぐぬぬ……」
 泰光は昼間の稽古の失態を思い出し、顔を沸騰させた。
「刀の名称を教えたり、木刀を握ったりしただけですがな」
 たったそれだけのことでも、祀を喜ばせた点では負けてしまっている。泰光にしてみれば腹を切ってしまいたいほど悔しい。
「そろそろ朧も二十歳。若も本気で嫁取りせねばならぬ年頃になる以上、あの娘を近くに置くのは心休まらぬ。若はなぜかあの小娘にご執心じゃからな」
「清純なる真水で生活しておれば、塵の一つにも心奪われましょう。ただ、塵を澱と捉えるか、花びらと捉えるかは人によりましょう」
 溜息を吐く泰光に、長門は不敵に笑う。
「若は花瓣と捉えたと?」
「いかにも。澱を花びらと見間違えたままであることは十分に考えられますな。若の周囲には今までなかった異端者でありますからな」
 泰光はふんと忌々しそうに鼻息を荒げた。
「聞けばあの小娘、赤松家嫡子の更也との縁談を断ったそうじゃ。またとない話を棒に振るとは愚かな。元は十六までの滞留を認められていただけで村入りもしておらん。里としてもいつまでも村入りの儀をせぬ小娘を置いておくわけにはいかぬだろう」
 長門はやや驚いた様子だった。朧を嫁にしようと考える者が居たことにも驚いたが、それよりも彼は、朧がずっと昔にすっかり村入り――下界から来たものが里の構成員として公に認められること――を済ませ、この里に居座っているものだとばかり考えていた。恐らく里の住人の殆どが彼同様に捉えていることだろう。
「ほう。ならば里から出てもらうのも容易ですな」
「そうじゃ。長との取り決めで本来は十六にはここを出ることになっておったはずじゃわ」
 泰光は未だに里に居座り続けるのが気に食わぬと鼻に皺を寄せる。
「しかし朧が居なくなるということは、彼女に押し付けていた雑務、全て我々で吸い上げねばなりませぬ。また手が汚れますな」
 長門は白く長い己の指を眺め、嘆息した。
「ふん。そんなもの、持回ればそれぞれの手下数人で充分やり遂げられるわ!」
「そうですな。手が汚れるのは、別件ですからな」
 長門の瞳が怪しく煌めいた。泰光は頷きこそしなかったが、やや思いつめた顔をして唇を真一文字に結ぶ。
「まずは長に進言せねばならん」
 明白な回答は避けられたが、両者の視線がかち合い、互いの計画が暗黙の内に了承された。即ち、過ぎたることを知る者は将来里の禍根の火種と成り得る。彼らが秘密裏に火種を取り除き、里に安寧をもたらすこともまた将来に備えた大事な仕事なのであった。




 祀の足は七日の内に快癒し、一人で郷内を散策できるまでになっていた。里の者は身分差を隔てず親しく声をかけ、無垢な笑みをほころばせる彼女にすっかり魅了されていた。
 下界の暑さに比べ、夕刻ともなるとやや涼しい風刻の里は、祀のお気に入りの避暑地となった。
「今度は紅葉を見たいですわ」
 祀は楸の送った合歓の花をちょこんと指に摘まんで輿の窓から顔を覗かせる。多少揺れはするものの、馬や徒歩(かち)で下山するよりはましだろうと急に見繕った輿だ。故に、祀に似合いの上品な華やさに欠ける、飾り気のない輿であった。
 彼女は稽古見学の一件から、毎日楸たちの家を訪ねては木刀に触れたり、里の一般的な村人の生活に触れて楽しんでいた。彼女自ら、彼らの家に訪問したいという願い出があったのを幸いに、疾風も朧たちに会う口実が出来たところだった。急速に親睦を深めた楸たちは、彼女たっての願いもあり、見送りの参列を特別に許された。
「また来てね、祀姉ちゃん。風刻の紅葉はね、上等な錦みたいに綺麗なんだぜ」
「ええ、その時は案内してくださいね」
 お花を有難う、と祀が微笑む。左耳の上にちょこんと挿せば、艶やかな簪のようであった。この季節に彼女に最も似合う桜の花はないので、合歓の木によじ登って数本取ってきたものだ。
 花は遠目から見ると桃色の綿の扇子のようだった。合歓の木は、楸には少し大人びた女性の印象があったが、枝から摘んで花だけになるとなかなか可愛らしい。朧に合歓は夫婦円満を表すのでさぞ喜ばれるだろうと言われ、思いがけない失敗に落胆した。祀のことは好きだが、疾風の嫁としては来てほしくない。彼女に意図が間違って伝わらなければ良いのだがと思うも、祀の天上の笑みを見てしまってはやはり心が蕩ける。
「お気をつけて、祀殿。暫くはご無理せぬよう」
 隣の朧が別れを告げた。
「朧様。またわたくしに稽古をつけてくださいませ。今度は楸君のようにわたくしも刀を振りとうございます」
「命あらば」
「お願いいたしますわ」
 他の者たちも二言三言それぞれにはなむけの言葉を贈ると、輿はゆっくりと山道を下り始める。祀は名残惜しそうに輿の窓から顔を覗かせて、郷を見つめていた。やがて、坂を下りきると緑の芽吹く森の中に消えた。

 祀が去った夜、疾風は紫雲に呼ばれ寝室を訪うこととなった。
 父子として話がしたい。
 公私を厳しく分け隔っていた紫雲が神妙な面持ちで言うには理由があるのだろう。
 幼いころから父を父と呼ぶことを許されず、長と呼んできた。妹にこそ父親らしい顔は見せるが、疾風に直接それが向けられたことはない。嫡男の扱いというのはこういうものなのだと幼いころから疾風は己にいい聞かせてきた。私(わたくし)を重んじれば身を滅ぼすことは古今東西の史書にも昔話にもままあることだ。村人の親子のふれあいを見れば、小さな時分こそ寂しいと思うことはあったものの、諦めが先行していた。肉親として愛されていないとは感じないし、父としても長としても紫雲のことは心から尊敬している。数年前からは時に代行を任されることも出てきた。即ち、少しばかりは信頼されている。そういう証拠だと己を励ましてきた。そう思うものの、両者の心の距離は決して近いとは言い難かった。
 父はどこまで己の性格を把握しているのだろうか。疾風はふとした瞬間に考える時がある。疾風を取り巻く大人たちの、良心的な解釈を拭った冷静な眼差しで、どこまで見られているのだろうか。次代を担う者としての努力や研鑽、それらで繕った固い鱗を剥いだ中身を紫雲は見透かしているのだろうか。
 しかし、疾風もまた長たる威厳で身を包んだ紫雲の表皮を剥いで、一人の男としての中身を見られているかと問われれば、虚しくも否定せねばならなかった。内側を見るということは何も良いことばかりではない。脳裏では想像しきれなかったその人の醜さや脆さを見ることでもある。ともすれば認めたくない闇を覗きかねない、決心のいることなのだ。容易に叶うことではない。
「祀は里を楽しんでいたか?」
「はい」
 だが、紫雲の問いに疾風は拍子抜けした。父子の話というからには、私的だが重い、腹を割らずには語りつくせぬ話だと予想していたのだ。だのに紫雲は里の誰の目から見ての自明の問いばかりを投げかける。
「里に馴染めそうであるか」
「ええ。既に充分に馴染んでおります」
 紫雲はそうか、と安堵した様子だった。
「お主はやがて祀を娶ることとなろうが、どう考えておる」
 どう、と聞かれても返答に困る。質問が漠然としている。
 頭では蓮見家と藤間家の婚姻が非常に有利であることは分かっているし、己が嫡男として生まれた以上、家の定める相手を容易に拒めぬことも理解している。
「蓮見の家柄は藤間家の発展にとっては申し分ございません。有力な家柄との結びつきは藤間を有利にいたしましょう。ですが、私には祀は妹にしか思えません。それに歳も六つも違います」
「六つなど大差ない。じきに妹ではなく女として見ることができよう。それとも、誰か他におるか」
「……」
 疾風は口ごもった。
 想っている相手は――居る。朧だ。それも何年も想い続けている。自覚のなかった時から数えればどれほどになろうか。
 他の女と居ても、何かに興じていても、ふと頭を正すといつでも彼女が心の裡にある。いつでも彼女が今どこで何をしていて、何を思っているのかが気になるのだ。同時に、彼女が己と同じ気持ちではないことを腹立たしく感じることもあった。想えば想うほど、同じ量の想いを決して相手は持っておらず、且つ返って来ぬことに寂寥を覚える。
 幼い頃から行動を共にして、いつしか、疾風にとって朧は唯一人に譲りたくないものとなっていた。
 疾風にとって朧は風であり、吹き込むがまま、彼の胸に大きな穴を開けていった。鮮烈な気で貫かれた風穴は、貫いたその人でないと埋められぬ。そうして風は吹く度に彼の静かな心の底に火を起こし、消えずの火のように煌々と燃え盛っていった。
 だが、父に朧を伴侶に迎えたいと言ったところで、里には何の利益もない。寺に捨てられた朧は一体どこの家の出身かも判然としない。加えて、郷内ですら彼女を庇護する立場の家は居らぬ。己が家名に縛られた存在である以上、相応の家柄が求められる。或いは里に恩恵がなければ婚姻の意味はない。
(せめて十六夜様が生きておられれば)
 十六夜――望月本家の庇護を得られて少しは有意だっただろうに。
 ただ想いを燻らせるだけではだめなのだ。
 それは分かっていた。
 しかし、家という化け物は人ひとりの力ではどうにも動かせぬもので、内包する全て、或いは隣接するものまで呑みこみながら巨大になる。巨大にならなければ零落し潰える。元よりその大きな胃の内側から傍観している存在の己に、他者の人生を好き勝手に化け物に食わせるわけにはいかなかった。
 朧を娶るということは、即ち、彼女の人生を藤間の家に縛り付けることであり、彼女がそれを望んで居るかと言うと、そうは思えなかった。加え、その覚悟で自分の隣に居てくれるかと問うたこともなければ、問う勇気もない。自分と夫婦になるということは、この里と命運を共にするということ。全てを捨てて身を粉にして藤間の家に、そして里に、命を擦り減らされてくれとは頼めなかった。
 それに、奔放に駆ける彼女の翼をもいで鳥籠に閉じてしまいたいほどの執着があったとしても、翼を失くし、空を忘れた鳥が美しさと精彩を欠くのと同じで、彼女から自由を奪い、輝きを失った姿を見たいとは思わない。
 疾風の答えるべき言葉はずっと以前から多くは残されていないのだ。
「……いいえ、思いつきません」
「そうか」
 望む、望まぬなどはなから聞かれては居らぬ。飲み込みの良い息子を演じなければならない。周囲からも斯様に望まれている立場だ。
 そう己を納得させようとする一方で、疾風は身に抱えた煩悶の塊が疼くのを感じた。己を欺瞞して、滅諦など到底出来るはずもなかった。








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