秘匿の檻

 下級騎士は拷問にかけられぬ。
 守衛の会話を漏れ聞いて、ミシェルは安堵していた。にも関わらず、しかし彼女は拷問部屋の椅子に繋がれている。
 目の前の男は、確かクロヴィスと言う名のイグニアの上級騎士だ。レモラ要塞陥落の晩、ミシェルが最後に打ち負かされた相手である。墜落していく乗騎のドラゴンからこの男が見えたため追撃したのだが、結局乗騎は彼のドラゴンに焼かれ、加えて、己まで子どもを相手にするように容易に組み伏せられたのだ。
 このクロヴィスという男は、涼しげな眼差しと流れるような金の髪を持っており、血生臭い拷問部屋とも汗臭い騎士業とも似合わない、華麗な宮廷に侍るだけを目的とした従侍やら貴族の居城が相応しいような佇まいだ。尤も、外見如何をさし置いて、騎士としての実力は充分に備えているに違いなかった。
 アグリアはどの騎士もその殆どが荒武者然としており、武を知らぬものからすると、ともすれば粗野と見えなくもない。だが、その実、一端の兵になるには力だけでなく、技術の鍛錬や戦術の知識も厳しく叩きあげられる。しかし、下級騎士時代から綿々と培った岩漿のような熱が抜けきれずにいるのもまた事実。血生臭さを否定せず一身に受けるような戦法ですらある。そういった者たちが国土を支えておらなければ、アグリアが一つの王国として、隣国イグニアと大陸の侵攻の二手に力を削ぎつつも、国としての立ち位置を確固たるものにできるはずがない。
 尤も、例外というのはどこにでも居るもので、騎士長レダのように極限まで熱を削ぎ落とし鮮烈に敵を凍てつかせるような使い手もある。
 クロヴィスはどちらかというとレダのような鋭い剣戟の使い手だ、とミシェルは感じていた。それでいて、アグリア騎士の誰もが持っている内に熱いものを秘めている。
(レダ様よりも……)
 ミシェルは手枷の鍵を手のひらで操るクロヴィスを目前にして否定した。
(ヴァレリー様の太刀筋に似ている)
 彼女は度々手合わせをしてくれる金髪の上級騎士を脳裏に描いた。
 クロヴィスと同じ金の髪。だが、こちらの髪は裾に跳ねた軽快さを持っており、同じく性質も奔放であった。性格は良く言えば柔軟で臨機応変、悪く言えば真面目さに欠ける。しかし彼の繰り出す剣戟の流星のような芸術性は誰もが認めざるを得ない。剣技の美しくも確実に相手の急所を突く軌道はもはや血生臭さを脱し、芸術に昇華されているようにすら見える。二人の共通点は血生臭さを昇華する機能的な美しさにあるのかもしれなかった。
 その流麗な剣戟の使い手であるクロヴィスは、今、内密の許可を得てミシェルを連れ出し、目の前に対面している。一人の護衛兵もつけずに人払いまでしてあるのだ。平然としているクロヴィスの表情を、ミシェルはぎらりと睨み付けながら、内心では怪訝に穿っていた。
「さて、アグリア軍ミシェル・ベルナール。君に取引を持ちかける」
 クロヴィスは対面に腰掛け、小さな机に肘を置く。
「私を拷問にかけるなら好きになさい!」
 ミシェルは頑として取引には応じぬつもりだった。アグリアの騎士としてのプライドが、例えどのような痛い目にあっても固く口を閉ざそうとしていた。どのみち、捕虜の運命というのは両極端で、殺されるか否かが全てだ。身代金を出してもらえれば国には帰れる。だが、そも、彼女の上官たちのレモラでの在り様を見れば、何の地位も持たぬ一介の下級騎士に身代金を出してまで命を救う価値があると考えるように思わなかった。むしろその金で己の欲望――酒や女――を満たす方がよっぽど有益と考えるだろう。上官たちは下級騎士を代替のきく駒としか考えておらなかった。
 今にも噛みつきそうなミシェルを、クロヴィスは見据えた。溜息こそ吐かぬが呆れとも憐みともとれる眼差しが彼女を突く。
「まずは話を聞け。貴殿にとって悪い取引ではないはずだ」
「イグニアの言うことなぞ聞くものですか!」
 クロヴィスは頑なな彼女の言葉を無視し、続ける。
「レモラ要塞の総指揮官の名を教えろ。他の捕虜からは満足する答えが得られていないのでな。その代わりに、貴殿ともう一人の捕虜の身柄を解放しよう」
 ミシェルは目を見開いた。他にアグリアの捕虜が居るのかと思うと、少女特有の連帯感による安堵も感じられたし、その騎士への同情と憐憫も感じられた。大衆の牢屋に入れられていないということは己よりも上の位の者であることも予測されたし、そうであれば拷問にかけられるとも思い至った。しかし同時にレモラ要塞を陥落させるに至った要因を作った人間であれば、敵の拷問にでもかけられてしまえという意識も持っていた。
 ともかく、現実が伴わないにせよ、今、ミシェルの天秤には二つの命が乗っかっている。己ともう一人の捕虜。そして総指揮官の名。
 総指揮官の名を語るのは容易だった。アグリアでも貴族――特に腐敗の噂される者たちの支持を一身に受けている有名な人物だ。イグニアにも名が通っているこの総指揮官の名を喋ったところで、イグニア側はさもありなんと思うだけだろう。
 ただ、ミシェルは目の前の男に屈することだけは何としても嫌であった。これ以上この男に打ち負かされるのは彼女の矜持が許さない。
「……信用できるものか」
 しばらくの空白の後にミシェルがひねり出した答えに、クロヴィスは何ら表情を変えなかった。代わりに足組みを変えて、
「だろうな。……ならば残念だが一緒に捉えたドラゴン――名をティーカップといったか。まだ幼い個体だが殺処分せねばなるまい」
 とさも意味ありげな眼差しを向ける。
「!」
(ヴァレリー様だ……)
 迂闊にもミシェルは動揺を表情の内にしまっておくことは出来なかった。クロヴィスの口角が心なしか吊り上った気がした。彼はミシェルとヴァレリーに接点があることを知っていたのか、或いは彼女が上官たちの名を覚えていそうな性質としてかまをかけたのだろうか。どちらにせよ、ミシェルはまんまと彼の術中に、いともたやすくかかってしまったのだった。
「話したくないか」
 ミシェルは返事をすることが出来なかった。すると、クロヴィスはおもむろに立ち上がり、脇に置かれた机から何かを持ち出す。
「ならばこうしよう。私がこれに勝ったら、一文字ずつ話してもらう。なに、騎士ならば素養はあるだろう?」
 二人を挟む机の上に白と黒の四角い盤が置かれ、二色の駒がそれぞれ十六ずつ並べられた。チェスだ。恐らくは見張りの兵たちの息抜き用だろう。駒は彫刻のやや甘い、大衆向けの粗悪品のようだが、平らな戦地に構える白と黒の軍勢は並ぶと壮観だった。
「チェス……」
 ミシェルにはチェスの素養はなかった。他の騎士たちがチェスを遊ぶことがあるのは知っていたが、彼女をはじめとし、体を動かすことを好む騎士たちはこういった知略ゲームにはとんと疎い。他の者たちが戦略と戦術を盤上で駆使している間、ミシェルのような者たちはずっと訓練場で各々武器を用いて組んだり、素振りをしていた。
 よって、知っていることといえば、精々駒がどういった方向に動くのかということと、王を詰めるゲームであること、それに一部の信奉者が戦略と戦術を駆使した非常に知的なゲームで、盤上に騎士道精神を表現しているといって誇らしげにしていることくらいだ。
「おや、君はチェスの素養がなかったのかな?」
「な、ないわけがないでしょう……!」
 ミシェルはクロヴィスに屈したくなくて、咄嗟に嘘を吐く。盤上で駒を動かし始めればすぐにでも露見してしまうくだらない嘘だ。彼はミシェルの手枷を一時的に外すことを伝え、
「ならば結構。白はイグニア、黒はアグリア……と行きたいところだが、先攻有利とあるので、白は君に譲ろう」
 と意味ありげに目を細める。満足げな笑みを浮かべてミシェルに駒を進めるよう促した。
(ポーンは最初は前に二マス進めるはず……)
 ミシェルはキングの前のポーンを進める。
「どうぞ」
「なるほど。なかなかの手つきだ」
 クロヴィスは笑いを含みながら彼女のぎこちない駒の進め方を眺めた。
 そして数分の後、
「チェックメイト」
 声を発したのは勿論クロヴィスだった。ミシェルの駒はことごとく彼に取られ、一瞬のうちに勝敗が決した。同時に、彼女がチェスをあまり知らないことも露見したはずだ。
「それでは総指揮官の頭文字でも言ってもらおうか」
「……」
「騎士に二言はないはずだ」
「……」
 クロヴィスはミシェルがチェスに不案内であることは指摘しなかった。もしかすると刀を交えてから今までの少ないやり取りの間に、彼女の低いとは言えぬ矜持を感じとり、立ててくれたのかもしれなかった。
 それに、勝負に負けたのは事実だ。ミシェルは気が進まなかったが、彼が指摘するように、約束をたがえるのもまた彼女の騎士道には反していた。
「……B」
 ミシェルはうつむきがちに小声で呟いた。聞こえなければいいと思ったが、クロヴィスはきちんときき耳を立てていたようで関心したように頷く。
「ほう……。ではもう一局勝利の機会を与えよう。君が負ければ次は最後の文字でもお願いしようか。今回はなかなか予想外に早く終局してしまったので、次こそは期待するぞ」
「そう何度も負けるものですか……!」
 そう啖呵を切ったものの、結果はさも当然のようにクロヴィスが勝利する。
「では最後の文字を」
「……」
「おや、納得いかぬ顔をしているな」
「あたりまえです! 何故ポーンがクイーンになるの!?」
「プロモーションを知らないことはあるまい」
「……。……E、です」
「ほう。素直で結構」
 ミシェルの返答を無知のはぐらかしと取ったのか、素直に負けを認めたのだと取ったのか、クロヴィスは満足げに口角を上げる。
「だが、この程度の腕前ではアグリアに返してやることはできんな。敵が間合いに攻め入るまで様子を見ているようでは、どのみち実際の戦術もそうたいしたことないのだろう。アグリアに帰っても足手まといだろうな」
「……っ!」
 ミシェルは閉口した。尤もだったからだ。
「もう一度……お手合わせ願います……」
 恥を忍んで敵に懇願するが、
「それは無理だ。君では私に勝てぬのは明白だ」
 クロヴィスはかぶりを振って、解放したミシェルの両手首に再び手枷をつける。しかし、牢へは向かわず、再び椅子に腰を掛けて盤に駒を並べ直した。
「ただし、次は暗記をしてもらおうか。私の動かす駒を一度で暗記する。明日それを確認する」
「チェスで暗記は愚かだと聞きましたが」
「ふん、そういうことは知っているのだな。確かに愚かかもしれぬが、それは戦略を紐解けなかったときに真に愚かになる。駒の運びから何か学び取れたならば、完全に愚者の行為とは言い切れまい」
 クロヴィスが白のポーンを進める。
「それとも、放棄して牢の中で首が飛ぶのを待つかな?」
 挑戦的な視線がミシェルに送られた。彼女は騎士長でもない上級騎士の彼が、なぜアグリアの兵に手助けするのかは分からなかった。しかし、生きるにしても死ぬにしても、もはや彼を一時だけ信じるしか道はなさそうなのも確かだった。
「やるわ!」
 ミシェルは次々に動く白と黒の駒をじっと見つめながら、その動きを頭に叩き込む。額が汗をかいていた。


「死体を運び出せ」
 気が付けばミシェルは手押し車の中に詰め込まれていた。眠っている間に巻き藁にくるまれ、他の牢の死人とともに車の中にいたのだ。寝息は立てていたはずだった。しかし、何が元で死体と取り違えられたのか、皆目見当がつかなかった。周りを確かめようにも、蛆のわいた死体やまだ生温かい気のする死体に顔や体が押しつぶされ、暗闇しか感じられなかった。
 このまま土の中に生き埋めにされるのだろうかという不安が頭を一周する。しかし、仮に今外に出たとしても、たちまちのうちにこの車を運んでいるイグニア兵に刺殺されてしまう。
 ミシェルは息を殺して車が止まるのを待つ。どれだけの距離を歩いたのか、突然車が止まった。
「なんでこんな夜中に運んでくるんだよ」
「や、だって、上級騎士様からの命令なんだから仕方ないだろ」
 イグニア兵の会話が漏れ聞こえる。
「お前俺があと10分で仮眠だって知ってるくせに……」
 二人とも職務には従順だが、十分に疲れているようだった。一瞬、手押し車に被された藁が捲られ、心なしかあたりが明るくなったような気がした。
「くっせ」
 しかし、イグニア兵は再び藁を被せると、数歩後ずさりする。
「今回のはまた酷くってなぁ。そうだ、どうせ死体なんだから、明日埋めようぜ」
「そうするか。どうせもう交代の時間だしな」
 男たちは病気で死んだ老人の遺体の発見が遅れて牢屋を清掃する羽目になったことや、牢内の死体を食べていた同じ牢の娼婦の話をひとしきり終えると、立ち上がり歩き始めた。恐らくは交代時間が来たのだろう。交代のイグニア兵は来ず、彼ら自身が呼びに行くらしい。それもここが死体の遺棄所であるからかもしれなかった。
 足音が遠のき、ミシェルはこの死体の海から這い出ようと試みる。しかし、
「もう少し待ちたまえ」
「……!」
 聞き覚えのある小声で彼女を制止したのは、クロヴィスが捕えたと言っていたティーカップの主・ヴァレリー・ヴィランタンその人だった。
「もう良いだろう。すぐに行くぞ」
 重い死人の体を持ち上げ、或いはすり抜けてミシェルは車の外に出た。ヴァレリーは上級騎士然とした優雅さを持って、既に車から脱出している。どうすれば衣服を汚さずにあの死体たちの中に潜り込めていたのだろうか。不思議なくらい清潔に見える。
「さあ、向こうにティーが待っているからさっさと行こう」
「はい!」
 状況を聞く余裕はなかった。交代の兵士が来る前に、事前に待ち伏せているティーカップと合流せねばならない。そして速やかにこの場を離れなければならない。
 やや離れていた木々の茂みに体を伏せていたティーカップはパートナーを見つけて爛々と琥珀色の目を輝かせた。退屈そうに頭を項垂れていたのが、ヴァレリーを見つけた瞬間くるりと嬉しそうに口を開く。
「しー」
 ヴァレリーが声を出さぬよう指示するとかれは心得たかのように口を閉じる。ただし、好奇心が旺盛らしく、うずうずとしている様子は、直接の関わり合いを持たぬミシェルにも手に取るように分かった。
「乗れ」
「し、失礼します」
 ヴァレリーが騎乗し、ミシェルに手を差し伸べる。汚れた手を彼女は、同じく汚れた衣服のすこしばかり汚れの少ない部分で拭くと手を取った。
「しかし酷い脱走手段を手配してくれたものだ。借りは返さねばならないな」
 ヴァレリーはティーカップに飛ぶよう命じながら呟く。その表情は面白そうでもあり、皮肉っぽくもあった。
「さっさとアグリアへ帰還だ。ティー、頼んだぞ!」
「うん、ばれりー、てぃーがんばるー!てぃーびゅーんってあぐりあかえる!」
 やっと話しかけられて、ティーカップは嬉しそうに加速する。
「ヴァレリー様……。その、失礼ですが、大丈夫ですか?」
 ミシェルは恐る恐る尋ねた。ヴァレリーが飛行に酔う体質であることは上級騎士ならず、下級騎士にもよく通った噂だった。
「そうだな。酔う前に着くよう、頑張ってもらうしかない」
「ばれりー、てぃーにかませてー!」
「頼んだよ」 
 ヴァレリーがティーカップの背を撫でると、数日飛べなかった分を取り戻すかのように、かれは尾を打ってぐんとスピードを上げる。眼下の砦は厳戒体制には違いなかったが、まるで脱走者のことなど知らぬように夜の眠りに包まれていた。


 砦の窓からクロヴィスは空に飛ぶ一騎のドラゴンの影を眺めていた。
(また戦場であいまみえることだろう)
 窓枠の外にドラゴンが無事消えたのを見て、彼はくるりと後ろを振り返る。すると、そこには男装をした小柄な女性騎士が、浅葱色の瞳を鋭く光らせていた。
「このような時刻にどうなさったのです、クロヴィス」
「アルーシェ……。いや、アルシオ、なぜここに」
「あなたの足音が聞こえましたので」
 事故で右目の視力が衰えてしまったとはいえ、眼光の鋭さまでは衰えないようで、クロヴィスは首を振る。
「いや、なに、チェスのことを考えていた」
「とぼけたことを。捕虜“たち”に随分と肩入れなさっていたようでしたが。“脱走”した二人のどちらかがあなたの“クイーン”ですか?」
 アルーシェは怪訝な顔でクロヴィスに追及する。
「ほう。勘が良いな。君でも妬くのか」
「はぐらかさないでください!」
 心なしか顔を赤く染めたアルーシェを、やはり男装よりも女性の服の方が似合う顔をしているなどと思いながら、彼は彼女の脇を通り過ぎる。
「アルーシェ、私のクイーンはたった一人だけだ」
「自信がおありのようで」
「ああ」
 クロヴィスは表情を見せなかった。だが、アルーシェには同僚がどのような顔付でそう語るのかは、見ずとも明らかだった。
「私のクイーンはアリアだ。次会えばクイーンがルークの首を取るだろう。それだけだ」
 それまでにどれだけ成長するだろうか。己の戦術はチェス盤上で授けた。
 クロヴィスはこつこつと石造りの床を鳴らしながら、すっかり影の消えたアグリアの騎士たちを思い、切れ長の目を細めたのだった。



イグニアの盾 アグリアの剣」投稿作品
(一部キャラクターをお借りしています。)
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