秘匿の滓


 ミシェル・ベルナールの日常は深い森の中にあった。
 騎士団長だった曾祖父が騎士道に反逆したとして追放されて以来、ベルナール家は軍都アグリアを出奔し、ガルバス火山の麓のさびれた農村に根を下ろしていた。
 親からは曾祖父は厳格な性質でそれが災いし、政敵に貶められたのだと聞いていたが、貶められ、さびれた村はずれで砂を噛む生活を強いられるまでの輝かしい騎士物語譚は幼いミシェルと弟にとっては心躍る幻想的な英雄譚であった。彼の血に連なるという事実が二人にとってはどんなご馳走よりも喜ばしく、どんな手伝いの褒美よりも栄光だった。
 一家はドラゴンの生息する火口への登り口に家を構えており、許可なくドラゴンを狩る不逞の輩を見張る山守を任されていた。また、いまひとつはドラゴンが誤って村に闖入し田畑を荒らさぬよう監視する役割もあった。
 ミシェルも父について山守の手伝いをしたが、森の切れ間に時折姿を見せるドラゴンの飛行に目を奪われては注意されたものだった。高い嘶き声とともに炎のブレスをほんの少し吐き出し、己が体にかかろうものならば魔法耐性に優れた鱗が虹色に輝くミスリル銀のように防御の姿勢を視覚的に表す。何者よりも力強く奔放で傲慢だが、故に雄々しい神性が感じられた。
(何と美しいの。私も騎士団に入ってドラゴンに乗る。ひい爺様のように!)
 ミシェルは暇を見つけては森の中で寝そべりドラゴンが飛行するのを眺めた。黒い木々の陰の間にぽっかりとあいた空のあなにドラゴンが飛ぶ。風を切って、重そうな翼を優雅に羽ばたかせる。どんな宝石よりも価値のある深い金色の瞳、硬質でありながらエナメル質のなめらかな真紅の鱗、太古の装飾紋を思わせるような神秘的な渦の巻いた角。
(美しい。でも、このドラゴンは――)
 ドラゴンの背に人が騎乗するのが見えた。しかし、それが何者かは空の強い光によって打ち消されてしまった。



 水が滴るわずかな音でミシェルは深い眠りから目覚めた。こんなにも深く眠りに落ちたのは振り返ってみれば実に数日ぶりだった。石畳の床は固く、筋肉の緊張を解くにはいささか困難だったが、ひやりとしていて土埃の湿気っぽいところは森の土の香りに似ていなくもなかった。彼女はまだ朦朧とした頭のまま、身を起こして辺りを見回す。天井近くの壁に穿たれた通気口からわずかに光が漏れていた。日の昇っている時間らしい。あんな夢を見たのはこのためだったか。
「アグリア……ではない……」
 ミシェルは己の薄汚れた恰好を見てはっとした。
「イグニア側の牢屋か」
 牢に繋がれていてアグリアの騎士服を纏っているのは己だけであった。そも騎士服を着こんでいるのが自分しか居らない。あとは町人の服を着ていることから、雑多な犯罪者の檻に閉じ込められたのだろう。アグリア軍門とはいえ、下級騎士の扱いは知れたものだ。
 ミシェルは鉄格子を掴み、試しに揺すったり、叩いたりしてはみるものの、守衛はのんきに酒をあおっており、気を留めぬ有様であった。誰もが最初に行う単純な行為に逐一構ってられないということかもしれない。どのみち彼女の力でこの堅牢な鉄格子を捻じ曲げることなど不可能だった。
(レモラ要塞は……、物資はどうなったの!?)
 背後から脱走を諦めた拘留者が無駄だと呟くが、彼女は聞かぬふりをしてなおも拳を鉄格子に打ち付けた。どうにかしてこの牢から抜け出なければならなかった。例え帰国していかなる厳罰が待っていようが、彼女はアグリアに帰らなければならなかった。そして、聞かなければならなかった。土煙がぼうぼうと巻き上がり、城壁が次々に崩れ落ちていったレモラ要塞の戦いの結末を。



 レモラ要塞は軍都アグリアと聖都イグニアの境界近くに位置する要衝の地で、隘路に富んだ高台にあるのに加え、眼下には広大な川が広がる好立地にある。ここはアグリア側の各拠点に武器や食糧を輸送する上での重要な役割を担っている。
 ミシェルは下級騎士の一部隊としてレモラ要塞に配置された。要塞に駐屯しているのは上官の一部を除いてほとんどが下級騎士の階級であり、戦いに身を置いた経験のまだ少ない者たちである。但し、戦績を上げ昇進できるならば少々の犠牲を支払っても構わぬと目の奥にぎらぎらとした隠しきれない光を携えた者たちでもある。
 当初から戦ではここは最前線にはならぬだろうと予測されていた。しかし、最前線でないものの、この要塞で秘密裏に開発されている兵器は、今後の対ドラゴン戦の命運を分かつ重要なものらしい。機密のため下級騎士では兵器詳細を知ることは叶わないが、伝えられた任務では、輸送隊が到着したのち、夜闇に紛れて小船でこの度できあがった試験品をアグリアへ届ける手筈だ。従って、ミシェルらは輸送隊が到着するまでの数日間、イグニア軍に悟られぬよう要塞を死守しなければならなかった。
 しかし、戦線から遠いことは部隊の士気を日に日に落とすこととなった。最初こそ規律だって城壁や高射塔――城壁の角櫓とは別に対ドラゴン戦闘用の射撃用の塔が城壁内に独立でとりつけられている――の見廻りを繰り返していたが、上官の数人が日中からゲームに勤しみだすと、次の日には見廻りのドラゴン隊も数を減らし、上官をまねて遊戯にかまける者が増えた。
 風の便りで貴族出身の上級騎士の中には、前線へ派遣されぬ厚遇の者がいるらしいとミシェルは聞いていた。生まれ持った地位に胡坐をかいて甘い汁をすすることだけを職務としている騎士だ。この要塞の駐屯兵の多くがたった数日で職務を怠り始めるのは、兵にも怠惰の素質があったのかもしれぬが、上官に人の手本とならぬ者が多いからかもしれなかった。
 また、各地の情勢も怠惰に拍車をかけていたかのように思う。レダ隊、バルトサール隊が勝利をおさめ、フィデリオ隊も優勢だという。戦が終わるのが先か、輸送体が到着するのが先か。上官たちの中で勝利は揺るぎないものとなっていた。彼らはどう転んでも劣勢に転じることはないと踏んでいる。それまでこの要塞でゆっくりと休暇でも取るつもりなのだろう。
 ミシェルは定時報告の際に見た、騎士とも貴族とも思えぬ下品な態度で遊戯にふける上官たちを思い出し憤慨した。報告は特に問題なしの一点だったが、あの様子では重要な問題が起こっても聞いているのか否かすら判然としない。それほど酒と遊戯に夢中になっており、部下の言葉は耳に入っていない。彼らは何故この僻地に駐屯しているのか、その理由をすっかり忘れてしまっているようだった。
「こんな様で仮にイグニアが攻めてきたりでもしたら一体どうするというの」
 そうは思っても面と向かっては口には出せなかった。確かに各地の情勢を聞けばアグリア有利と取るのは決して間違えではないだろう。しかし、レモラ要塞での任務は終結していない。即ち、レモラ要塞のアグリア軍自体にはいまだ凱歌は響いていない。従って、いつ何ときイグニア軍の襲撃を受けるとも限らないのだ。
 ミシェルは憂さ晴らしに配給された剣の手入れをし、つかの間の休息を取る。休息にさえ備品の手入れをしているのを見れば上官は無用な行為とあざ笑うのかもしれない。そんなことを考えていると、腹の底から沸々と怒りが込み上げてきた。
(考えるのはやめておこう。いくら私が考えても仕方のないことだわ。私があの人たちを見習わずにクラウディア様やフィディオ様、それにレダ様を目標にすれば良いだけのこと)
 彼女は腰に剣を佩くと鬱積した思いを払うかのようにかぶりを振って要塞外の見廻りへと向かっていった。



 この夜は月も風もない静かな夜だった。
 遂に輸送隊がレモラ要塞に到着し、アグリアに向けて件の兵器を輸送する準備に勤しんでいた。今宵は朔なので秘密裏に輸送するには最適だったが、風のつゆとも吹かないのが不安の種だった。要塞からアグリアまでは不眠不休で船を漕ぐ必要があったが、こうも風が吹かないとなると、計画通りに軍都内に入れるか、些か心許ない。しかし、ミシェルがどれほど心配しようがあとは輸送隊の面々に任せるほかなかった。
(これで今回の任務もやっと終わるわね)
 ミシェルは静かに燃える松明越しに眼下を眺めた。城壁の外にあるはずの丘陵も川も、全てが暗闇に包まれ、松明失くしては見ることが叶わなかった。同じく、上官たちの怠慢と戦への驕りもこの任が終われば暗闇に消える。天上の光が強く不正を照らさない限り、彼らは陰で暴利を貪り続けることだろう。かといってミシェルが告発しようにも、下級騎士の地位では讒言と捉えられかねず、ひいては騎士の地位すら剥奪されかねない。彼女に許されるのは、ただ黙して勤めあげることだけだった。朝が来れば撤退の準備となる。それまでの辛抱だ。
 ミシェルは長い城壁の通路を行ったり来たりしながら時折空を見上げて自軍のドラゴンの腹を見つめた。初日に比べてすっかり数が減っている。不在の騎士たちはドラゴンたちの体を磨くことすら満足にせず、遊び耽っているのかもしれない。彼女はもはやこの要塞で姿を見せぬ者は皆上官たちと同じように任務とは別のことに明け暮れているのではないかと穿ちがちになっていた。
(ほら、また一騎)
 再び空を仰ぐと先ほど見上げたドラゴンの姿が消えている。隙を見て抜け出したかと思ったその時――、どん! と城壁の向こう側に土煙が上った。微かにドラゴンのうめき声が聞こえる。じっと目を凝らすと、衝撃音の真上から先ほどとは大きさも形も違うドラゴンの群れが羽音もなく現れた。
「!」
 ミシェルは咄嗟に弓矢を手に取る。
「イグニア軍……!」
 未だに警鐘が鳴らないのは既に担当の兵が斬られたのか、或いは持ち場を離れているのか判然としなかったが、松明の火によって上空からは既に己の位置が暴かれているのを覚り、声を張り上げた。
「敵襲ッ!」
 彼女は矢を射た。しかしイグニアのドラゴンは優雅に旋回してこれを避ける。
(焦らずもっと引き付けてから射なければ!)
 ミシェルは矢をつがえてじりと相手の近づくのを待つ。出来ればドラゴンを射たくはない。美しく己の憧れでもあるドラゴンを射ることは、ドラゴンという神秘的な生き物を生み出した神への冒涜となる気がした。しかし、同時に彼女は現在の己の技量でそれを叶えるのはまだ高等すぎることも理解していた。アグリアを勝利に導き、自らの命を守るためには、やはりドラゴンを射るしかない。
(森での狩りは得意だったでしょう、ミシェル)
 彼女は自身にいい聞かせ、イグニアのドラゴンが下降するのを待つ。暫くの膠着状態が続いたのち、ドラゴンがやや上昇し、竜上の騎士が槍を前に出して一気に突撃してきた。
(まだ、まだよ……。行けっ!)
 ミシェルが弓を放したのに合わせてドラゴンが城壁の通路に突進する。彼女は槍撃を避けるため、壁際に身を投げ出した。打ち身や擦り傷はしただろうが、体の痛みよりも矢がイグニア騎士の右腕に突き刺さっていたことに高揚し、彼女は意気揚々と腰に佩いた剣を抜く。ドラゴンも騎士も通路に突進した衝撃で今しばらくは自由な動きが取れないはずだ。この隙に一気にかたをつければ、一つの手柄になるかもしれない。その欲が彼女を突き動かした。
(10メートル……。これでも小さな型だなんて、イグニアのドラゴンはすごいわ……)
 彼女は瓦礫を足場に青色の鱗をしたドラゴンの背に乗る。呻く操縦者を前に剣を掲げ、
「アグリア軍下級騎士、ミシェル・ベルナール!」
 と名乗りを上げた。剣を振り下ろそうとしたその瞬間――、
「え……!」
 彼女は背後から跳ね飛ばされ、イグニアのドラゴンの上から叩き落された。
「そこまでにしてもらおう」
 ミシェルは衝撃で立ち上がれずにいると、そこに一人の男が居た。金よりも深い亜麻色の髪、切れ長の宝石のような緑色の瞳、そこだけ周囲と温度が違うような涼しげな佇まい。ただ居るだけで場の空気を変えそうな鋭い戦いの気配にミシェルは圧倒された。圧倒されるのはそれだけではない。彼の乗騎のつやつやとしたいかにも硬質な赤い鱗の美しいこと。渦を巻いた角の素晴らしいこと。加えて、腹部の白い鱗がまた対照的で、松明の火に炙り出されて燦然とした神性を帯びていた。
 男は一つに結わいた髪を揺らしながら抜身の剣でミシェルを指した。
「部下をいたぶるのはここまでにしてもらおう。さて、毒の在り処を吐いてもらおうか」
「毒……?」
「そうだ。アグリアが秘密裏に研究している対ドラゴン用の毒ガスだ」
「……!」
 ミシェルは頭の先が冷え冷えと凍るのを感じた。まさかアグリアがドラゴンに毒をまくような騎士道精神に反する真似をするとは思えなかった。否、思いたくなかった。それに、このレモラ要塞にあるものは“武器”のはずだ。
(毒も武器だというの……?)
 彼女は自問に思い直して頭を振った。
(いいえ、それ自体が効果を大にするのなら、毒こそが武器ということになるわ)
 ミシェルは立ち上がると男の質問には答えず、駆け出した。すぐそこに角櫓が見える。
「追うぞ!」
「は、はい! クロヴィス上級騎士」
「ただし、深追いはするな」
 最初の騎士が男の名を呼ぶのが聞こえた。二機のドラゴンは翼を広げ、低空を飛行する。
 ミシェルは追撃を振り切り、角櫓を降りると真っ直ぐに竜舎へ向かった。竜舎の中には今宵の偵察を免れたドラゴンたちが突然の攻撃にきょろきょろと落ち着きなく辺りに耳を澄ましていた。彼女は内一騎を放ち、その場に置いてあった剣の束に布をかぶせ、ドラゴンの背に括り付けた。
(これをその毒だと勘違いしてくれればいいのだけど)
 竜舎から飛び立つとすぐに敵と鉢合わせをした。しかし、剣戟を交えることなく、彼女はドラゴンにひたすらに速さを求める。
「お願い! もっと早く飛んで!」
 この若めの個体は、下級騎士にあてがわれた配給のドラゴンだけあってよく命令を聞いたが、残念なことに速さの面では劣っているように思えた。気付けば要塞はいつの間にか戦地と化していた。複数の破城槌が城壁を抉ろうと怒声を上げ、空からはイグニアの大型竜が迫っている。レモラ要塞という肉をついばむように。戦いは劣勢だと下級騎士の彼女でもっても判断が出来た。
(船は出たのかしら……)
 ミシェルは旋回して、要塞の後方に曲がりくねる川を見下ろしながら、暗闇の中へ漕ぎ出したであろう船を思い描いた。
「その武器を渡せ!」
 気づけばアグニアの騎士たちにぐるりと周りを囲われていた。先ほどよりも数が増えている。夜闇に銀の槍がぼんやりと輪郭を描いてこちらに向かう。
「降下して!!」
 ミシェルは両手の手綱を引きドラゴンに命じるが、彼女が叫ぶも虚しく、槍はドラゴンの薄紅の片翼を貫く。そして彼女は騎乗のまま真っ逆さまに落下していった。手綱だけをしっかり握りしめて。



イグニアの盾 アグリアの剣」投稿作品
(一部キャラクターをお借りしています。)
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