chafter 〜美術館の至宝〜


 糸のように長い雨――白ティーシュガーをスプーンからサーっと溢したような雨の日だった。
 泥水が鼻腔に流れるのも厭わず、男はまま、ぬかるみに身を横たえていた。
――ここでしのうか。
 男は安っぽい陶酔に心身を委ねていた。これまでの虐げられた人生を鑑みれば、この独りよがりともいえる酔いは彼に許されるべきであった。この冷え冷えとしたぬかるみすらも彼の身に染みついた欲の熱を、有無を言わさず奪い去るのだから、それくらいは許されて当然なのだ。
 冷却、それこそ男の追い詰められ行き場をなくした叫び、蒸発することのない熱のエナジーを厳しく吸い上げるものだった。
 己は哀れだ。男は思った。生まれ出でたことを祝福され、成人となったことを歓待されたものだった。婚約者との幸せな生活は目前にまでせまり、じきに子をなし、平凡な人生を送るはずだった。
 それがまさか、たった一度の契機で永遠に失われるとは。それだけではない。彼は人としての尊厳さえ奪われ、家族からも疎まれ、その死を望まられたのだった。
「私達にとっての幸せは、お前がどうか神により死を賜ることだ」
――父よ、父よ! あなたのそのような顔を見るために僕は生まれてきたのでしょうか!
 男は涙を流した。涙は頬を這う泥水をはね除け、熱を籠めたまま地面に落ちる。その熱をまた、このティーシュガーのような真っ白い雨が冷たく吸い上げていく。
――いいえ、違います。まさかそんなこと、あるわけがございません!
 しかし、同時に雨は、彼の最期の主張さえも吸い上げてしまった。全てを厳しく冷却する。それが雨の仕事だから。長雨はまだ止まない。


『テ ヴァン ルージュ』


 ソフィーア・ローセングレンは貴婦人なら皆が持つオンブレィユから顔を覗かせた。
――何ということ!
 今日は朝から素晴らしい晴天だった。快晴とまではいかぬが、引きちぎった綿菓子のような雲が紺碧の海洋にふんわりと二三浮くばかりで、雨の気配など露とも感じさせなかったではないか。
 なのに、行きつけの茶館でアフタヌーンティーを楽しんでいた矢先に黒雲が垂れ込めてくるとは! 安らぎの時間を奪われたソフィーアの裡にふつふつと憂鬱が湧き出でる。彼女はバイオレットの瞳で些細な幸せを奪い去った灰色の雨雲をきっと睨めつけた。しかし、雲はますます重く街の屋根に垂れ込める一方で、ついには爽やかな青空を覆い尽くしてしまった。
「まるで黴のような雲。シトロンの爽やかさが台無しだわ!」
 彼女はシトロン果汁が滲み出た明るい水色の紅茶をくいと飲み干す。一気に飲み干すのはそうして、雨脚が強まらぬ内に、とオンブレィユを頭上に差し、茶屋をあとにした。
 オンブレィユの役に立たないことといえば、まるで飾り立てられた小犬のようであった。ファッショナブルな代わりに、本来の役割である雨を防ぐには効果がありそうでない、見せかけだけのところにあった。これならば晴雨兼用のアン・トゥー・カを持って来ればよかったか、いやいや、あんなに晴れていれば、まさか雨が降るとは思うまい。
 ソフィーアは肩を小雨に濡らしながら家路を急ぐ。彼女の家はこの街の繁華街からはやや離れた緩やかな坂をのぼった先にある。ちょっとばかり小高い場所にあるため、建物の屋上からの展望はなかなかのものだ。
 目が覚めるような紺碧の海と両目では収めきれぬぐんと伸びた地平線、そこに浮かぶ大小のラグーン。ラグーン同士を繋ぐ恋人の運命の糸のような橋! しかし、雨降りの日はちょっとばかり遠い、面倒な立地であることも確かだ。風景代と称して足で労働費を支払わなくてはならない。
 長い道のりの緩やかな傾斜を登り始めた時だった。突然、空がわっと泣き出し、小雨は土砂降りに一変した。
「最悪だわ!」
 ソフィーアはこのオンブレィユがもはや用をなさぬことを悟った。オンブレィユから空を仰ぎ、もはや黒に近くなった雨雲の群れをきっと睨みつける。睨んだところで何が変わるでもなかったが、もう一度睨みつけてやらないでは気持ちが収まらなかったのである。
 大粒の雨に打たれながら、しかし、ソフィーアは走るだなんてみっともない、と思っていた。淑女はいつも余裕がなくてはならない。それは彼女の信条とも言って良かった。己の家――ローセングレン家の屋敷の主として相応しいよう、あくまで優雅に。


 そんなソフィーアが異変に気付いたのは、屋敷に至るまでの長い階段をのぼりつめた時だった。
 顔を泥水に浸しながら、男が横たわっている。
(まさか、死んでる……?)
 ソフィーアは役立たずの日傘を軒先に置き、パラプリュイに持ち替えて男の傍に寄った。若い男だ。成人して間もない程度で、衣服に乱れはない。行き倒れだろうか。
 ローセングレンの屋敷は少し高台にあるため、たまにこうした人種を引き寄せる。――自殺志願者、それである。しかし、彼女はあくまで冷静だった。慣れもあったが、一番は辟易していたからだ。哀れに思うよりもうんざりとしてしまうのだ。
(はぁ。自殺なら岸壁か時計塔に行けばいいものを……。古城でもいいわ。ああ、でも時計塔はダメね。人の良い魔女が自殺を止めてしまうもの。死ぬなら岸壁。それか古城。波の高いきわに行けばすぐだというのに)
 ソフィーアは男の顎を持ち上げる。中の上。それが彼女が彼に下した外見の印象だった。品定めをしながら彼女は、
(この男もローセングレン家の悪しき噂を聞いてやってきたのかしら)
 と、三階建ての屋敷を見上げる。
――七番の館、ストリゴイの館。
 この屋敷にはそんな異名がオカルト好きの若者や噂好きの下世話な中年女の間で囁かれていた。この屋敷の主が代々七番目の子どもであることから出た噂で、元を辿れば、七番目の子どもは吸血鬼になる、という古い伝承に由来するようだった。よって、ここは魔の館である、と。
(吸血鬼に殺してもらおうって魂胆の、他力任せな“自”殺志願者がよくよくやってくること!)
 ソフィーアは死に損ないの男を見て呆れた。この種の人間に出会い過ぎてしまい、今や彼女は同情を辞めてしまった。最初こそ哀れだとも思ったが、彼女がもっと幼い少女であるころから同様の事件は続いている。今や一人暮らしの彼女が、まだ大勢の家族に囲まれていた時からずっとだ。見飽きてしまったが故に、感情の一部が麻痺しているともいえた。
 だが一つ、ソフィーアが相手に働きかけることがあるとすれば、それは起こすことだ。起こして自宅のベッドに寝かせること。生死は関係ない。ただ、大切に運ぶ。その後で公安にでも連絡をすればいい。相手を放置したといって、うっかり自殺幇助や死体遺棄の罪をなすりつけられてはこちらが困る。
 この男は雨で冷え切ってはいるものの、まだ芯があたたかい。彼女は男の背中に耳をあてた。肉を伝って小さな鼓動が聞こえる。
――生きている。
 幾ら哀れだと思わなくなったとはいえ、死体でないことの方が良いに決まっている。彼女は胸を撫で下ろすと、立ち上がり、おもむろに踵を持ち上げた。
「起きなさい! いつまで寝ているおつもり?」
 そして踵を勢いよく男の背中に降ろす。男の反応はない。
「私の屋敷を墓場にしないで頂戴」
 もう一蹴するが、まだ反応はない。更に一蹴。ゆすり起こすことはしない。男が起きるまで、生きることの痛みを味わせてやるのだ。白い――泥に塗れてもはやミルク珈琲のような――シャツの下が赤く腫れようが彼女には関係がない。
「起きなさい!」
 男の背骨に短い華奢なヒールが引っかかり、コツッという軽い音を立てて折れた。
「うっ……」
 男が呻いた。ソフィーアは両足を揃え、男を冷ややかに見下ろした。
「立てるようになったらそこの扉から入っていらっしゃい。死ぬにしても何にしても、お話はそれからよ」
 そういって、男の頭元に雨傘を置き、屋敷に入っていく。雨は冷え冷えと二人を濡らしていた。


 男は屋敷の中を落ち着きなく見た。豪華な屋敷だ。元々貴族の邸宅と聞いていたが、これは間違いなく富を蓄え、欲しいままに動かしていた方の貴族だ。名前だけの小貴族などではない。男はそう感じた。なのに、長い机の両端を己と少女だけが囲んでいる。他に人影が見当たらないのがどこか不気味だった。
「それで、どういう見解で私の屋敷で自殺しようとしたのかしら」
 ソフィーアは今宵の晩餐である鳥の詰物を、ナイフとフォークを使って器用にさばいている途中だった。男の目に、彼女は成人前の少女に見えた。彼女の態度は高慢であるが、そのせいか、屋敷の主然としている。
「ねぇ、エーベルハルド・ランデルさん。あなたには説明義務があると思うわ。だってあなた、これは立派な不法侵入だもの」
 言葉の間間に、一口大に切った肉を口に放り込む。
「だんまりは許さなくてよ。死ぬ前には吐いてもらいますから」
 ソフィーアは言葉こそ苛立ちを隠さなかったが、表情は逆に穏やかであった。
 男――エーベルハルドはソフィーアの強引な問いかけに一言も答えず、凍ったように青白い顔のまま、テーブルの上の銀食器に視線を落としていた。食事には一切手をつけず、冷めたオードヴルにブルーテ、メインディッシュが豪勢に並んでいる。首にかけたタオルもいよいよ乾きつつあったが、彼は未だに雨に打たれているように陰鬱とした佇まいであった。
「まあいいわ。どんな理由があるのかは知らないけれども一つ教えてさしあげる。自殺したいのなら橋を渡って岸壁に向かいなさいな。橋から数えて――そうね、あなたの足で1839歩。その先のせり出した崖からなら身投げに成功すると思うわ」
 ソフィーアは指で机の隅から飛び降りる動作をまねしてみせた。口を閉ざし続けるエーベルハルドにわざと意地の悪いことを言ってみたのだった。ここにきてエーベルハルドも漸く口をきいた。重石の乗ったような口をゆっくりと開き、
「父に、死んで欲しいと言われたので死にに来ました」
 と呟いた。
 くだらない! ソフィーアは最もくだらない理由だと断じた。自らの意思なく、己の生死を人に委ねてきたとは!
「そう、それで?」
「ここへ来れば死ねると聞きました。七番の館の吸血鬼は、仲間を増やさない孤高のひとで、血を一滴残さず平らげると」
 エーベルハルドの言葉に彼女はまたか、と嘆息した。
「失礼ね、そんなことしないわ」
 ソフィーアは今時の成人男性がまこと吸血鬼の存在を信じているものかと疑ったが、敢えて馬鹿らしいと一蹴はしなかった。それは勿論、彼女がまことに吸血鬼の一族だからである。吸血鬼だと名乗り出たところで、やすやすと信じられるはずもないが――殊に文明の発達した昨今では、霊的なものは証拠不十分として概ね否定される傾向にある――、しかし、エーベルハルドの顔つきを見れば、オカルト的な好奇のために訪ねてきた風ではなかった。彼の瞳はまるで孤独に身を落とし、天主に縋りつく子どものようだ。本当に実父に見放されたのだろう。
「僕の血を全て差し上げます。殺してください」
「断るわ」
 ソフィーアは彼の要望をぴしゃりと突き返した。
「あなたが誰の噂を聞いてきたのか知らないけれど、私は血なんて吸わないわ。……今は。」
 そう言って彼女はブルーテに口をつける。生クリームがとろんと螺旋を描き、口の中でサツマイモの甘い香りが鼻を抜ける。
「今は……?」
「ええ、そうよ。最近は苦労せずに食べ物が手に入るからそのエネルギーで十分よ。そうね、紅茶やベリージャム、それにワインなんかでも充分なプラシーボ効果が得られるわ。あなたの考え方って吸血鬼界ではもう随分と古めかしいと思うの」
 大体、成人した男の血なんて不味いったらありゃしない。ソフィーアはそう思ったものの、胸の内にそっとしまいこんだ。喋ってしまうと肉の柔らかそうな十代の娘が良いとか、産後に肥立ちの良くなった女――殊に授乳中の女が良いとか、迂闊なことを口走りそうだった。
「それで、お父様はなぜあなたに死ねと?」
 ソフィーアがナプキンで口元を押さえて尋ねる。
「あなたに死ねとおっしゃるんだから、それはとてもとても重大なことが起こったのでしょ? そうでないとまだ人生の三分の一も終えてない、丁度今が盛りの労働力を放棄するなんて考えられないわ」
 エーベルハルドはソフィーアの早口に、もはや普段の冷静さを取り戻そうとしていた。
「人狼に噛まれてしまったんです」
「まぁ! それはご愁傷様!」
 エーベルハルドは事の次第を述べた。聞けば、婚約者の付き添いで森へ出掛けたところ、突然狂乱した狼が襲ってきた。彼は身を挺して婚約者を庇い、その甲斐あってか狼は彼をひと噛みするだけで去って行った。幸い深手にもならなかったが、その月の満月の夜からどうしても野獣のように肉を噛み千切りたい、血肉を味わいたい、野を駆けたい、そんな欲求が抑えられなくなった。村の司祭を呼んだところ、邪悪な気に害されていると宣告をされた。いわく、人狼に噛まれたのだと。そうして彼は村にも家族にも見放され、勘当された。
「満月の度に襲ってくる恐怖に、僕は自分を見失ってしまい、恐ろしいのです」
 彼は己のことを語りながら酷く恐怖していた。信じていた者たちに拒絶された恐怖を、初対面のソフィーアにも感じているようで、容姿と似合わず矮小な印象を与えた。
「ご安心なさい。そのうちに慣れるわ」
 ソフィーアは彼の苦悩を聞いてなお、つっけんどんな態度で言葉を返した。
「安心だなんて! 慣れるだなんて出来ません!」
「そんなことないわ。慣れるものよ。諦めなさいな。あなたの寿命、あと五十年ぽっちでしょう? そのくらい耐えてみなさい」
 エーベルハルドは唇を噛んだ。ソフィーアは鼻先であしらうばかりで、ちっとも己の気持ちを分かってはくれぬと思った。月齢を数える度にやってくる言い知れぬ恐怖。暴力的なまでに、野生に、野蛮に帰れと己の知らぬ血がふつふつと燃え滾る。ついには己を制御できず、理性は飛び、恐怖もいつの間にか消え去って一夜の記憶が失われる。そんなものが己だと認めたくなかった。
「……五十年。あと五十年も生きていることなんてできません! 満月の度に襲ってくる苦痛も、家族の冷たい視線も、もう嫌です!」
「ここにあなたの家族はないわ。もちろん、向こうももうあなたが死んだと思っているでしょ。あなたに帰る場所はない」
「分かってます……!」
「分かってるなら早いじゃない。あなた、ここで新しい生活を始めればいいことよ? 家族の冷たーい視線も感じないわ」
「そう……ですが、結局他人から冷たい視線を受けるのは必定です。僕が生きる限り」
「ええそうね、いい歳した男が雨に打たれて自殺しようかななんてできもしないこと呟いて他人様から何の仕事も努力もせずに温情を頂こうなんて、そんな腑抜け、誰もがつっめたーく差別しちゃうんじゃないかしら?」
 ソフィーアの皮肉めいた微笑みに、エーベルハルドは吸血鬼――否、悪魔ともいおう片鱗を見た。
「人狼なんてどこも雇ってはくれません!」
「自分で開拓すればいいじゃない。そうね、ここ――とか」
 彼女は慎ましやかな胸に手を添える。
「……ここ?」
「ええ、ここよ」
 轟音とともに稲光が部屋を照らした。壁面いっぱいに飾られた大小さまざまの絵が――絵の中の人物がぎろりと己を見つめたように、その時のエーベルハルドは確かに感じた。豪奢な装飾で埋め尽くされた屋敷の装飾が、まるで魔の集団のようだった。全てが貴金属で鍍金され、貴石で飾られた小悪魔のような。
「ここ、ローセングレン美術館というのよ。もっとも、今は休館中。絵を運び出せる手が足りないの」
「お、狼男を雇ってくださる美術館だなんて聞いたことありません」
「そうね。だからここが第一号じゃないかしら」
 ソフィーアは豊かな銀髪を揺らして微笑んだ。
「気が触れている。僕は本当に狼なんです」
「ええ、信じているわ」
「だったら!」
「あら、あなたが言ったんじゃない。私が、吸血鬼だって」
「それは……」
 エーベルハルドは言葉に詰まった。確かに己が言い出したことだったが、心の底か彼女を吸血鬼であると信用しているのかと問われると肯定も否定も出来なくなってしまった。
「新しい人生を始めればいいじゃない、エーベルハルド。あなたが考える以上にこの世界は魔で溢れているのよ。そう、この都市だって――こんな小さな都市にだって、ローセングレン家の坂さえ下れば沢山の“奇”に、“魔”に支配されているもの。みんなうまく溶け込んでいるだけだわ。それに人間の方が時にあなたたちが化け物と呼ぶ種族よりもずっと残酷な化け物なのよ」
 それとも、とソフィーアは続ける。
「あなた、まだ死のうと思っていらっしゃるの? もう気付いてもいい筈よ。あなたのそれ、自殺じゃないもの。――あなたに本心を問うわ」
「僕は……」
 エーベルハルドは存在したかもしれぬもう一筋の人生に思いを馳せる。恥であるから外に出るな、隔離する、しかし生きていて欲しい、何故ならお前はそれでも私たちの大切な家族だから。そう言われれば彼はきっと外出もせずに家の約束を守ったであろう。必要とされるのならば必死に守って生きようとしたであろう。
 しかし、現実は違った。家族にも婚約者にも見放された。彼らは彼の信頼を、信仰とも言える人生の光を、世間体という小さな、しかし鋭いナイフで切り刻んでしまった。信仰は空虚だったのか! 認めたくないエーベルハルドには父の言葉を飲むしかなかった。
――死を賜われ。
 その言葉を。
 死ねば土に還るだけだ。自殺者に復活の権利はない。ただ暗い土の中で、己の信仰は空虚ではなかった、きっとそうである、と自身にいい聞かせ続けるのだ。復活の日を迎えることなく、骨が、魂が果てるまでずっと。だが、それはとても虚しく、ただただ侘しいだけだ。
「僕は、誰かに必要とされていると思っていたのです。誰かに必要とされているならば、生きようと。苦しくても生きたいと」
「なら決まり。私の元に来なさい、エーベルハルド。あなたが必要よ」
 ソフィーアは席を立ちあがり、エーベルハルドの傍まで歩く。是とも非とも言わぬ彼の冷めた手を取ると極上の笑みを浮かべた。少女に似つかわしくない、魔にこそ似つかわしい蠱惑的な表情だった。
「私、血は吸わない主義よ。血は吸わない変わりに、あなたの年月を吸ってあげる。だからあなた、かぴかぴの骨と皮の老人になるまでここで働きなさい。五十年なんて、あっという間に吸いあげられるものよ」
「農村出身の僕に務まるでしょうか」
「みんな最初は慣れないものよ。多めに見るわ。でも、主語は“私”にしないこと? 形から入るのもいいと思わない? それにあなた、今生まれ直したんですもの。慣れないのも当然よ」
 エーベルハルドは立ち上がり、その場で膝をついた。どのように礼を尽くすかなど、田舎者の彼には到底想像しえなかった。ただ、昔妹に読み聞かせた童話のように膝を折る。
 ソフィーアは、よろしい、といって、
「なら、手始めに紅茶を淹れて頂戴」
「はい。ソフィーア、様」
「まあ。お嬢様とお呼びなさいな。女はいつまでも少女の心地なのよ」
「はい。お嬢様。それで、どのお茶になさいますか」
「そうね、今日は赤ワインコンポートのイチジクフレーバーの紅茶にするわ。あなたの髪の色ってば赤ワインみたいだもの。それで、ティーシュガーはどっさりよ。今日の雨みたいに。トルキェ風にまずは山盛り四杯からはじめましょ」
 ソフィーアは、雨で冷えて疲れた体には紅茶が血のように体内に巡って、それはそれは美味しいのよと付け足した。


 エーベルハルド・ランデルはこの後、ローセングレン家に実に六十年もの年月を仕えることとなる。彼の死は当主のソフィーアが看取ったと言われ、遺体はローセングレン一族と同じ墓地に葬られる。
 ローセングレン美術館はソフィーアの晩年に住居を残して彼女自身が競売にかけた。曰く、子孫不在のため存続困難との由。この美術館は一茶館から出世したネルム&スヴェンソン財団により買い取られ、後世に続いていくこととなる。
 だが一つ、残念なことに、美術館再興の祖であるソフィーアの最期は誰も知らない。


(完)
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